あす、夏に会いましょう

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 背中に感じる重みを煩わしく思いながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。外に出ることがあまり好きではないから、午前中から活動を始めようとする私に母は訝しげに行き先を訪ねてきたけれど、上手く答えられる気がしなくて聞こえないフリをした。  そう、だって、行き先は海である。  私は元々季節の風物詩を大切にするような人間ではないので、海に行くだなんて、それこそ数年ぶりくらいのものだった。  別に、行く必要はないと思う。彼女は私に来てほしいなんて一言も言わなかったし、むしろ鬱陶しく思われる可能性のほうが高そうだ。  だけど、無性に気になってしまった。彼女の声や表情に、夏の魔法のような、そんなスピリチュアルなものを感じたのかもしれない。先の見えないつまらない日常の中で、なんでもいいから、なにか刺激が欲しかったのかもしれない。  風を切る。スカートの裾が揺れる。蝉の鳴き声が、額に流れる汗を助長させているみたいだった。海はもう、すぐそこだ。  駐輪場に自転車を停めて、リュックを背負い直し、浜辺の方へ歩いて行く。特別人気のスポットでもないので、人はあまりいない。靴の中に砂が流れ込んできて顔を顰めた。昨日感じた潮の匂いが、今度はハッキリと香った。  「……あ」  思わず声が漏れる。彼女が、美空ちゃんがいた。浜辺に座り込んで、じっと青い海を見つめている。真っ白なワンピースが汚れることも構わずに。  声をかけるかどうか、迷った。彼女の世界に入ってしまってもいいものなのか、なにも、全然分からなかったから。  風が艷やかな黒髪を撫でる。頭に咲く、向日葵がついた麦わら帽子。そんな格好をしている人、現実では見たことがなかったけれど、でも、驚くほどに似合っていた。なにかの映画や小説の、ヒロインみたいだと思った。彼女に声をかけるべき人は、私みたいな空虚な人間じゃなくて、なんだか甚大なパワーを持つ、主人公みたいな人物でなければならないように思われた。  そういう物語が好きじゃないから、寧ろ私は馬鹿のフリをして、能天気に声を掛けることが出来たのかもしれない。  「あの。美空ちゃん」  美空ちゃんは、特に驚いた様子もなくゆっくりこちらに向き直った。私の頭の先から足の先までをしっかりと見て、そして、何も言わずに鞄から昨日と同じ手帳を取り出して、捲った。  「……真凛、ちゃん?」  「えっと、はい。あの、お邪魔かなと思ったんですけど、昨日、明日海に行くって言ってたから気になって」  「そっか、来てくれたんですね。ふふ、嬉しい。よかったら座ってください」  私が戸惑っていたからか、レースのハンカチを敷こうとしたので慌てて断った。私が飲み込みきれなかった点は砂浜に直接腰を下ろすことへの嫌悪感ではない。それよりももっと、明確な違和感が喉に引っかかっていた。  「なんで、敬語?」  「え? 真凛ちゃんがそうだったから、わたしてっきり」  「いや、私は別に、どっちでもいいんですけど……」  「なら、お互い敬語はやめるっていうのは?」  「じゃあ、それで」  明るい空の下で見るからか、改めて話してみると、昨日よりも不気味さというか、そういった類のものは感じなかった。寧ろそのことが恐ろしく思えるほどに、存外普通の女の子だった。  「荷物、ずいぶん重そうだけど。何が入ってるの?」  「今日、塾の夏期講習があるから。参考書とかテキストとか、勉強道具一式」  「わたし、勉強ってしたことない」  「え? 同い年くらいかと思ってたんだけど」  「えっと……今年十八歳、だよ」  「うん、じゃあやっぱり同じだ」  テキストがどういうものか見てみたいと言うので貸してあげたら、興味深そうにページを捲りながらもずっと眉間には皺を寄せていた。そんなに難しいものでも、珍しいものでもないのだけれど。  その時、ページの間からはらりと一枚の紙が落ちた。  「あれ。これなに?」  「……あー。進路希望調査票だよ。何も書けてないけどね」  「どういうものなの?」  「どうって……美空ちゃんも学校で書かされたでしょ? 『私はこうやって生きていきます』って未来を宣言させられるようなものだよ」  「……真凛ちゃんはやりたいことがないんだ?」  「うん。分かんないの、もう全然。生きてる意味とか、理由とか」  そこまで言って、会って二日目の相手にする話じゃないことに気付き口を噤んだ。美空ちゃんは真剣な眼差しで真っ白な紙を見つめていて、それがどうにも気まずくて努めて明るい声を出す。  「それより、海、どうなの?」  「……なにが?」  「見てみたかったんでしょ、ずっと」  「……あぁ、うん。綺麗だね」  彼女の声は平坦で、目に輝きもなくて、それに拍子抜けしてしまう。別に感動しているようにも見えなかった。それは願いではなくて、ただタスクをこなしただけのような、たったそれだけの行動であるように思われた。  「真凛ちゃん、この辺に住んでるの?」  「うん。まぁ、そこそこ近いかな」  「じゃあさ、お願いがあるんだけど」  美空ちゃんは調査票をテキストに挟み直して、私に差し出した。そしてそのまま私の手を包み込むようにして柔らかく握った。  「この夏、わたしと一緒に過ごしてくれる?」    目が合う。真っ直ぐで、切実で、短冊に書いた願い事みたいに清らかな声だった。真っ白な彼女の額に汗が浮かんでいる。それだけで、彼女の言葉の真剣さみたいなものが伝わってくるような気がした。  波音に促されるように静かに頷いた私を、暑く照りつける太陽がまるで証人のように見守っていた。
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