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シティポップが好きだ。
あの洗練された、コンクリートジャングルに生きるスタイリッシュな大人たちを彷彿とさせる歌詞、そしてこじゃれたアーバンサウンドは、半径十メートル圏内がこの世のすべてだと思っていた根っからの田舎者の心をむずと鷲掴み、瞬く間に大都会東京への憧憬を抱かせた。
地元信州の高校を卒業したのは、さかのぼること二年前のこと。上京し、憧れの土地で晴れて大学生となった僕は今、しかしシティポップのきらきらした世界観とは大きく乖離した鈍色の日々を送っている。恋人はおらず、友人は数える程度。ろくにアルバイトもせず、サークルにすら所属していない。
せめて成績がよければまだ救いがあるのだが、講義への出席率はすこぶる低く、まさに留年寸前。少し前に行われた期末試験の出来は、はっきり言って散々たるものであった。
八月中旬、僕は大学の夏休みを利用し、都会の喧騒から逃れるように地元に帰省した。実家はやはり落ち着く。両親だって喜んでくれる。そんなストレスフリーな環境は、もとより怠惰な性分をさらに体たらくなものへとしていった。
起床はいつも昼下がり。起き抜けから冷蔵庫を漁り、室温二十五度がキープされた快適なリビングで好きなものを食べ、好きなものを飲む。食後はたばこで一服。くたびれたソファの上。窓辺から射し込む陽光。なんとなく気がふさぐ午後。ぼんやりと眺めるスマートフォン。飽きたら外出。行き先は近所の大型書店。到着と共に鼓膜を揺さぶる有線。懐メロ。山下達郎。真っ先に手に取る週刊誌。グラビアページには名も知れぬB級アイドル。俗っぽいキャプションが躍っている。ふいに視線が重なり合う。微笑んでいる。誰かに似ている。思い出せない。いや、ことさら思い出す必要もないのかもしれない――。
「あのー」
今日も今日とて書店を訪れていた僕を退店間際、高いトーンの声が呼び止めた。何ごとかと思い振り向くと、そこにはつい先ほどまでレジ業務に勤しんでいた女性店員の姿が。
年にして二十代前半。高身長かつ細身の、明るい茶髪をポニーテールに結ったエプロン女が、マスカラだらけのまつ毛を瞬かせながら、こちらをしげしげと見つめている。
はて、いったいどうしたというのだろう。まさか万引きでも疑われているのだろうか。だとしたら心外極まりない。
僕はいつになく強気な語気で一言、
「なんですか?」
すると、
「秋山……だよね?」
「はい?」
「あたしあたし! メグル!」
この鈍りきった思考回路が事態を飲み込むまでに数秒の時間を要した。
先輩か、後輩か、はたまた友人か。今の時点ではまったくもって定かではない。しかし、ただ一つだけ言えることは、このいかにも軽薄そうな女が、ほかでもない僕の知り合いだということだ。
「メグ……ル……?」
初めて感情を得たロボットのような声が、ほとんど無意識のうちに己が唇からこぼれ落ちた。
僕は頭上三十センチに疑問符を浮かべ、わかりやすくうろたえながら、それでいてとっさに記憶を掘り起こす。有線からは相も変わらず懐メロが流れ続けている。そのゆったりとした調べに相反するかのように、思考は第一宇宙速度でぐるぐると回転を繰り返す。
メグル、めぐる、MEGURU――。
「メ、メェちゃん⁉」
直後、女が、メェちゃんが、カラコンに覆われた宇宙人みたいな瞳を三日月形に細め、よく通る声で「久しぶり!」などとのたまった。
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