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「東京、行ってみたかったなあ」
左手首に巻きつけたデジタル時計が十六時三十分を表示した頃、メェちゃんがふと、こんなセリフをつぶやき落した。
いったいどうしたというのだろう。いかにも物憂げな、湿っぽい表情である。けれど僕の網膜に、その横顔はひどく美しく、尊く映っていた。大聖堂のフレスコ画のような、あるいは銀幕を彩る若手女優のような。さながらこんなシチュエーションにこそふさわしいと言わんばかりの不可思議な趣が、このコンタクトレンズ越しの瞳には、はっきりと見て取れた。
出会ってから一度だって拝んだことのない、元クラスメイトの意外な一面に心拍数の上昇を自覚し、それでいていったん冷静になる。
「いやいや、来ればいいじゃん。冬休みとかさ。池袋でよかったら案内できるし」
このへんぴな田舎町から東京までの距離は、おおよそ二百キロメートル。新幹線ならば、わずか一時間半程度で移動できてしまう。ちなみに、東京大阪間は約五百キロメートルである。それゆえ、まるで天竺への渡航を指しているかのようなメェちゃんの口振りの重さに、僕はそこはかとない違和感を覚えていた。
「メェちゃんが思ってるほど遠くないぞ、東京」
するとメェちゃんは遥か遠く、喪服の一団が列をなす古びたバス停を眺めながら、
「そういう意味じゃなくて」
「え?」
「そういう意味じゃなくって、上京して、東京を生活の拠点にしたかったってこと。あたし、本当は都内の大学に行きたかったんだ。ま、お父さんがそれを許してはくれなかったんだけど」
初耳だった。僕は言葉に詰まる。額ににじむ汗がすうっと引いていく。
「だから君が、秋山みたいにここを出て行った人間が、あたしにはとーってもまぶしく見えてさ」
「ぜんっぜん。そんなことないって。俺なんかあっちでくすぶってるだけだし」
「またまたー」
「マジマジ。卒業は危ういし、ネット三昧だし、何もかもがいまいちうまくいってない」
自嘲気味に漏らし、直後、フィルターぎりぎりまで吸った一本をクッキー缶に押しつける。チェーンスモークに次ぐチェーンスモークもいよいよつらくなってきた。
僕はジーンズのポケットに忍ばせていたミントタブレットを二、三粒ほど、たばこ代わりに口に放り込んだ。辛い。痛い。舌先の口内炎にはちょいと刺激が強過ぎたらしい。わずかばかりの後悔が瞬時に頭の中を駆け巡る。
粒のほとんどが溶けかかった頃、僕は努めて呑気な口調で言った。
「就職、あっちでしたらどうよ」
「ううん」
「どうして?」
「なんていうか……東京はもうすっかりテレビとかネットの中だけの世界って認識になっちゃったんだよね」
あたしには、このつまんない街がお似合いなんだっ。
旧友のおどけた調子を前に、僕は黙したまま、その横顔に何か言いようのない悲壮感のようなものを感じ取る。
メェちゃんにとって東京は二百キロメートル以上の、それこそ天竺ほどの果てしない距離があるのだと、このとき悟った。
「なあ、一つ聞いていい?」
「何?」
「メェちゃん、この街、嫌いか?」
するとメェちゃんは一呼吸置き、すこぶる凛とした声で、
「もっちろん! マジ、ファッッック!」
と断言した。
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