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◯◯◯
陰気で、自殺率が高く、また自然災害が多いこの街を、しかし僕は愛している。心底から愛している。過疎化や高齢化が叫ばれて久しい、いずれひっそりと滅びゆくだけの一地方都市とはいえ、腐っても故郷なのだから。
もっとも、それでいてこの窮屈な片田舎に骨を埋める気もさらさらなかった。生まれてから死ぬまで大して登場人物の変わらないであろう土地で過ごす何十年という途方もない月日。そんな日々をふと想像したとき、己が脳髄に住まうヘドロ色のいびつな球体Xが突として爆ぜ、勢いよくしぶきを上げたかと思うと、やがて全身に鋭い悪寒を走らせた。夢も希望も見出すことのできない未来ならばいらないと、この瞬間、思春期の不安定な心ではっきりと自覚した。だから、というべきか、大学進学を口実に僕は、この要塞を抜け出した。都会への憧れと、何者かになるという漠然とした野望を胸に飛び出した。両親はそんな息子を快く送り出してくれた。
むろん、一方でメェちゃんのような人間がいることも忘れてはならない。彼女はもともと東京都内の国立大を目指していたのだという。しかし夢は、ついに叶わなかった。女に学は必要ない。平たく言えば、そんな時代錯誤も甚だしい言葉を実の父親から吐き捨てられたのだ。母親も味方になってはくれなかった。たび重なる説得の末、地元市内の大学ならば考えてもいいと父親は言った。夏で、十七歳だった。
「ふう……」
書店員の形のいい唇から、ため息混じりの吐息が漏れる。
時刻は十六時四十分。気づけば二人の頭上に沈黙の帳が下りている。
ふいに、なめらかな風が辺りを吹き抜けて、僕らの素肌を優しくなでた。木々の梢が、萎れかけたヒマワリが、ささやくように揺れた。クッキー缶の縁には一匹の赤とんぼ。視覚が、いよいよ秋の訪れを感じ取る。
信州の夏は短命だ。現に暑さの盛りはとうに過ぎていて、気温はもう真夏のそれではなかった。エアコン、いや扇風機さえ必要のない夜が、間もなくやって来るだろう。そんなどうでもいいようなことを頭の片隅で思いながら、沈黙を破ったのは僕のほうだった。
「最近、どんな音楽聴いてるの?」
これといって共通点のない二人をつなぐもの、それは音楽であった。メェちゃんは、間違ってもヒットチャートに食い込むことはないであろうエキセントリックなバンドの数々を僕に教えてくれた、言わばロックの師匠のような存在だった。その趣味趣向は年の六つ離れたバンドマンの兄の影響らしかった。
正直なところメェちゃんが手放しで推すアングラバンド群は、僕の理解の範疇を超えるものばかりだった。けれど同時に、聴き続けるうちに、彼らの紡ぎ出す難解かつ奇っ怪な世界観にそれまでの自分の中の常識みたいなものをことごとく覆されていったこともまた事実だった。もはや理屈でどうこう語れるものではなかった。
「ええと……」
僕の何気ない問いのあと、メェちゃんがくたびれたエプロンのポケットからおもむろに取り出したのは、一台のデジタルオーディオプレーヤーだった。純正品とは異なるスカイブルーのイヤホンが、経年劣化でくすんでしまったシルバーの本体に巻きついている。よく見ると液晶の端にクモの巣状のヒビが入っているではないか。
「あ、これね、兄貴の形見なんだ」
「形見?」
しかしメェちゃんは、僕の言葉を無視、あるいは聞こえていないかのような素振りで、ほら、とイヤホンの片方をこちらに差し出してきた。
兄貴の形見――その言葉が鼓膜にこびりついて離れない。たぶん、おそらく、いやきっと聞き間違いなんかではない。僕はひたと硬直したままイヤホンを受け取れずにいる。
三秒が経った。四秒が経った。
やがて痺れを切らしたのだろう。メェちゃんは折り畳みチェアごと一歩ほど距離を詰め、いとも容易くパーソナルスペースを侵略したかと思うと、次の瞬間には僕の右耳に問答無用でイヤホンをねじ込み、余ったほうを自身の左耳に装着した。
液晶に触れたネイルの指先が滑らかに上下動作し、そして、
「……おお」
イントロの、短いエレピサウンドのあとに聴こえてきた語りかけるような歌声は、ジャパニーズポップス界の重鎮、山下達郎のものにほかならなかった。
「達郎じゃん」
「正解」
「メェちゃん、こういうジャンルも聴くんだ」
「ドライブ中にたまたまラジオから流れてきて、それきっかけですっかりハマッちゃったの。意外だった?」
「意外もいいところだって。俺はもうてっきりアングラバンドが流れてくるものだと……」
「あはは」
このとき、初めて口元に手を添えず、メェちゃんが歯列矯正器具むき出しの笑みを湛えた。心臓が喉の奥で一度、ドクンと大げさに跳ねた。何せ今日イチの、輝くばかりの、屈託のない笑顔だったのだから。中学時代となんら変わりのない、かつて少女だった者の懐かしい表情が、そこにあったのだから。
僕らは黙って、その抒情的な男性ヴォーカルにゆらりと身をゆだねた。
この曲が店内で流れていたものと同じだということに気づいたのは、Bメロからサビへの扉が開かれた瞬間だった。
僕は尋ねる。
「この曲、タイトルなんていうの?」
メェちゃんが答える。
「さよなら夏の日」
心地のいい旋律は続く。
今、この世界には僕たち二人だけしか存在しない。ゆったりとした時の流れの中、気づけばそんな奇妙な錯覚にとらわれている。この頃にはもう形見だとかなんだとかいうワードはきれいさっぱり頭から抜け落ちていた。
大サビの途中、メェちゃんがふと、まるで独り言のようにつぶやいた。
「夏、終わっちゃうね――」
思えば、異性と一つのイヤホンを分け合い、高層ビルの一棟もないような田舎でシティポップを聴いた夏は、あとにも先にもこの一度っきりだ。
山下達郎を立て続けに二、三曲聴いたあと、僕らは別れた。
去り際、ほんの少しの名残惜しさを覚え、メェちゃんをダメもとで翌日開催予定の花火大会に誘ってみた。けれど案の定、返事はノー。清々しいほどの即答だった。明日は朝から心療内科の定期カウンセリング、そして午後からは集会があるらしかった。集会とはつまり宗教関係のそれを指していた。もしよかったら一緒に行く? ナチュラルにそんな誘いを受け、しかし僕はきっぱりと断った。彼女は眉尻を下げ、あからさまに残念そうな顔をしていた。
自宅方向を目指しながら、一歩、また一歩と乾いたアスファルトを踏みしめる。中途半端に汚れたスニーカーが控えめな足音を奏でる。どこか遠くのほうではヒグラシが鳴いている。金色の陽射しを浴びた書店が徐々に遠ざかる。
「秋山!」
と、そのときのことだ。後方十数メートル。くるりと踵を返した僕に向かって、ギャルメイクが大仰に右手を振った。
「あっちでもがんばりなよー!」
直後、タールにまみれた肺の隅々にまで酸素を行き届かせ、
「メェちゃんもなー!」
二人のあいだに、もうそれ以上の言葉は必要なかった。
やがて急ぎ足で店内に消えて行った旧友を僕は最後まで見送った。
胸の奥底で静かに鳴り続けるシティポップ。尽きせぬ想いにそっとフタをする。
もう二度と同じ夏は巡って来ない――。
過ぎゆく季節に潔く別れを告げた僕は、そして今、再び光の中を歩き始めた。
『シティポップがきこえる』完
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