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ヨアケ(1)
カレンダーの最初のページを、一日遅れて破った。
何があったわけでもないが、それなりに忙しく過ぎた一月だった。何があったわけでもないがエムとのふたり暮らしが始まり、彼の物が少し増え、家具をほんの少し動かした。新しく敷いたラグの肌触りが気に入ったのか、最近のエムはソファより床に座りたがり、ルミナの脚の間を居場所にしている。変わらず「ブルーム」のバーテンダーとして働く自分は、電車の動かない時間に帰宅して、朝が来る頃に眠り、昼もじゅうぶん過ぎてから起きる生活だ。変わったことと言えば、ルミナの帰宅を待って一緒に眠り、アラームに起こされてからルミナを起こすのを日課にするエムが、毎日コーヒーを淹れるようになった。どうせ暇だからとふたりで並んだ家電量販店の初売りで、デザインに惹かれたというだけの理由で選んだコーヒーメーカーだったが、おかげで最近は毎日淹れたてのコーヒーを飲める一方、エムのカフェオレのために仕事帰りのコンビニで牛乳を買う回数が増えた。
自分が一日遅れて一月のカレンダーを破るより前から、街はバレンタインのムードに溢れている。「ブルーム」のバーテンダーに熱意がなくても、来店したカップルは(半分以上はビジネスの関係だが)その話題で盛り上がるし、出勤途中に躱しきれず押しつけられたガールズ・バーのチラシには「バレンタイン・フェア一時間千円」の文字が躍っていた。商業主義と誹るつもりはないが、少なくともこの街の事情などそんなものだと思うし、クリスマスが好きだと言ったエムはどうやらイベントをなんでも楽しむタイプらしく、どうにかしてルミナを百貨店の催事場へ連れ出そうとしている。昔の女友達もエムも、なぜあの激戦場へ望んで行きたがるのか。自分はといえば、出勤前にエムと寄ったコーヒーショップで彼からもらった、シーズン限定のフラペチーノとやはり限定のオペラの濃厚な後味が、コーヒーで流し込んでから何時間も経つというのにまだ胸焼けとして残っているようだった。
「じゃ、また来るね~」
「ありがと。お気をつけて」
バッグをねだるのに成功した顔馴染みのホステスが、上機嫌にルミナへウィンクを送り、客と腕を組んで店を出る。壁際のテーブル席では残ったひと組の客が話し込んでいたが、マッチングアプリで出会ったらしい、おそらくこれからホテルへ行くのだろう初対面の男女も、やがて寄り添って店を出て行った。
しばらくして、カラン、ドアが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「今日寒いねえ」
「ですね」
コートを預かり、いつものタリスカーをオンザロックで出す。アイは唇を濡らすと満悦そうに笑み、それから、来たばかりのドアを振り返った。
「ね、まだ来てないの?」
「あー、うん、そろそろ来るんじゃないかな……時間は伝えてあるけど」
カウンターの下でちらりと見たスマートフォンの画面に、新しいメッセージの通知はない。
「ふふ、楽しみ」
「そんなに?」
「そんなに」
わざとらしく揶揄の目線を寄越す彼女にそれ以上何か言われる前に、カウンターを出てテーブル席からグラスを下げる。グラスを洗ううちにまたカランとドアが鳴り、わずかに開いたドアの隙間から、ピンク色の髪が覗いた。ルミナと目が合ってもまだ、言いつけを待つように中を窺うばかりで入ろうとしない。
「なに、入んなよ」
促されてようやく店内に踏み入れたエムを、アイがスツールから腰を浮かして迎える。
「こんばんは。エムくん?」
「はじめまして、エムです」
「ルミナくんから聞いて、ずっと会いたかったよ」
「俺もです」
切れ長の目を細め、両側の口角をきゅっと上げると、エムが人懐っこく笑い返す。アイの隣に腰かけ、寒さに赤らんだ鼻先をつんと向けるようにこちらを見上げてくる彼の美容院帰りの髪は、根元まですっかりリペアされ、いっそう明るいピンクになっている。いくぶん短くなったろうか、セットのせいなのか、いつもより気取って見えるのがおかしかった。
「切った?」
「毛先だけ。色きれいになったでしょ?」
「そうだね」
「傷みすぎだって、すっごい怒られた。でね、サービスで一番高いトリートメントしてくれたんだ」
彼の指の隙間からさらりと零れていく髪に、思わず手が伸びる。頭を擦りつけてくるエムの、風呂上がりには手ぐしも通らないほど傷んでいた髪が、なるほど、今ばかりは驚くほど滑らかな手触りをしている。
「はは、ほんとだ、サラサラ。ウケる」
慣れない感触にルミナが笑うと、エムも嬉しそうに笑う。その横でにやにや笑うのはアイで、ルミナは揶揄混じりの流し目から逃れるように、真新しいピンク色の髪から離した手を、カルーアの瓶に伸ばした。
「何飲む?」
「カルーアミルク」
「エムくん、もしかして私に会うために美容院寄ってきてくれたの?」
「あは、そうですって言いたいけど、たまたま。でも、頭ひどかったから。きれいにしてから会えてよかった」
「やだあ、かわいい」
ろくに美容院にも行けない生活が続いていた彼の、数ヶ月ぶりのトリミングだった。髪を切る時は、カットモデルになるのだそう。服も、食事も、おぼえきれないほど大勢いる友人のうちの誰かに施してもらう。そんなふうに人から人を渡って身繕いをし、ナイトアウトに誘われては、そこで出会った男の元に身を寄せる生活をしていたのだ。エムにお下がりの服を着せ、同じ部屋で寝起きする今の自分が、どれほど彼らと違うのかは考えても意味がない。鉢植えも熱帯魚もムーンも、同じように傍に置いたのだから。それでも今、自分たちはふたりでいて、それだけが彼の真実だとわかる。そしてそれは、きっと、ルミナの真実でもあった。
ホットミルクでもそうするように両手でグラスを持ってカルーアミルクを飲むエムに、興味津々のアイがあれこれ尋ねている。
「カットモデルって、新人の練習台なの?」
「うん、だいたい」
「失敗されたら怖くない?」
「えー? 思ったのと違うのはあるけど、大失敗は経験ないかも。新人さんっていっても、プロだし」
「そっかあ。安くやってもらえるなら、そういうのもいいよね」
「うん」
「アイさん、毎月の美容院代いくらなの?」
「聞いたら腰抜かすよお?」
口を挟んだルミナとアイの気易い応酬に、エムがふにゃりと笑う。いつもより酔いの回るペースが速いのは、アイに緊張しているせいかもしれないと思うと、それもおかしい。
「俺は知り合いの店だから、完全友達料金。今日は一緒にカタログ用の撮影もしたから、逆にお小遣いもらえたし、焼き肉も奢ってもらっちゃった」
「お前、肉食ってきたの?」
「うん、なんで?」
「すげーな」
夕方のフラペチーノとオペラを食べきれずに押しつけておいて、気楽なものだ。また胸焼けのよみがえるような気がする胃をひっそりと押さえるルミナに、エムはきょとんと首を傾げるばかりなのが、少し腹立たしかった。
いつもは軽く一杯飲んで立ち去るアイだったが、珍しく二杯目を注文し、カルーアミルクが好きならとルミナに作らせたベイリーズミルクを、エムに飲ませる。ベイリーズはクリーム系のリキュールだから牛乳と混ぜるとカルーアよりぼやけた味になるが、エムにはちょうどいいらしく、うまそうに飲んでアイを喜ばせた。
デザート代わりにオンザロックのベイリーズを飲み終えたアイが、チェックを告げてから、そうだ、と手を打ってバッグの奥を探す。
「これ、約束の」
「ありがと。忘れて帰っちゃうかと思った」
「忘れて帰りそうだったあ」
彼女が取り出した一枚のショップカードと、それに指をかけるルミナを、エムは交互に見比べていたが、口に出しては何も聞かなかった。もっとも、物わかりのよい素振りをしておいて、目でじっと訴えてくるのだから、ちっとも大人しくない。
「――なんて顔してんの」
「だって」
「あとで教えてやるよ」
たっぷりのチップと、ルミナとエムの頬にそれぞれキスを寄越したアイをドアの外まで見送り、少し早いがプレートを裏返す。後ろ手にドアを閉めながら、ルミナはエムへ肩を竦めて見せた。
「いつもはここまでじゃないんだけど。あれ、結構はしゃいでたんだよ」
「俺もはしゃいじゃったもん」
「そ。水飲んどきな」
「うん」
ビール程度のアルコール度数のカクテル二杯で頬をすっかり上気させるくらいには、酒に弱いエムだ。ほとんど減らしていない水の入ったグラスをエムの手元に押しやり、アイの去ったスツールに跨がる。グラスを大事そうに両手で持って水を飲むエムを横目にカウンターの中へ腕を伸ばし、飲みかけのグラスを取り上げる。溶けた氷でやや薄まった鏡月のソーダ割りは、喉を潤すにはちょうどよかった。
「ね、アイさん、いいひとだね」
「ああ、うん」
「美人だし」
「間違っても変な気起こすなよ」
「なにそれぇ、やきもち?」
ふにゃりと笑ってしなだれかかるエムを受け止めてやりながら、もうひと口、ソーダ割りを喉に流し込む。
「怖ぁいパトロンがいるんだよ」
ルミナは音を立ててグラスを置くと、きらりと光る氷の表面に、小さく吐き出した。
「――俺と同じ」
自嘲めいた冗談はまるで面白くなかったから、エムは笑わなくてもよかった。代わりに、指先までよく温まった手でルミナの手を握り、ぐりぐりと肩口に頭を押しつけてくる。
「……ね、約束って?」
「タトゥースタジオ」
「え?」
怪訝そうに顔を上げた彼の火照った頬に、頬を重ねる。
「紹介してもらった。きれいに消してくれるとこ」
押し黙ったエムの、アルコール含みのかすかな息遣いが伝わってくる。
レタリングされた文字の印刷されたショップカードは、プライヴェートスタジオの紹介状だ。いい店を世話してもらうなら顔の利く彼女が適任だったが、少し口を滑らせた感は否めず、「会わせてくれたら紹介してあげる」との交換条件を呑まされたあと、「取ったりしないよお」と追い打ちで揶揄われたのは実に不本意だった。
エムの背中のタトゥーを、服の上からたどる。
「命令じゃないし、べつに、お願いでもないよ」
髪が絡むほど近づけば、カラー剤の薬品臭さとトリートメントのにおい、それに、焼き肉と煙草の移り香がする。
「お前が嫌なら――そのままがいいなら、それでいいし」
彼を閉じ込め、身体に名前を刻み、死んだ男を、好きだったと言った。
「ううん――――消す」
囁くように呟いたエムの唇が、ルミナの唇を掠め取る。
「ルミナくん、大好き」
「そ」
啄んで離れた唇が再び重なり、開いた口から温かい吐息を漏らす。真ん中をピアスに貫かれた舌が、ぬらり、ルミナの舌を撫でる。
「……んぅ」
気の済むまでそうしていた舌が解けると、エムは濡れた唇をぺろりと舐めて、それから、押し当てた袖口の下で、いひ、と笑った。
エムが箒とちりとりとついでにモップの使い方を知っていたおかげで、床掃除を任せてほかの閉店作業を進められた。階段下の共同ゴミ捨て場にゴミを出し、白い息に乗せたふざけた節の「さぁむぅ~い」が口実だったのか単なる叙情だったのか、ルミナの腕に抱きついたエムのつむじあたりの髪に鼻先をくすぐられながら、大通りへ抜ける路地裏を歩いていた時だ。
夜と朝の間の閑散とした路上に、怒鳴り声が響くのは珍しくない。酔っ払いか、ジャンキーか、その両方か。首を巡らせてもそれらしき人影はなく、どこか別の路地裏の出来事だろうと、それ以上気にも留めなかった。
次の瞬間、押し出されるように、ビルの隙間から黒い影が現れる。それは軒先の電飾看板にぶつかってよろめき、両膝をついて派手に転んだ。
「わ」
横合いのエムが痛そうに呻き、左側の重みが消える。数メートル先で転んだ人物に駆け寄る彼を、今しがた怒鳴り声のした方向を気に懸けながらも追いかける。
「大丈夫?」
頷いたようにも首を横に振ったようにも見える小柄な人物が、エムの手を借りて身体を起こす。なんの変哲もない暗い色のダッフルコートからにょきりと生えるように出た素肌の脚で、よたよたと立ち上がる。そうしながらも大事そうに抱えるクラッチバッグのせいで、転んだ時に手を付けなかったらしい。靴も履かない素足、血の滲んだ両膝。幼さの消えきらない丸い頬、前髪の下の朦朧とした双眸、一見して少女か少年かもわからない顔立ちの、唇が開く。
「あの、ごめんなさい」
声変わりのまだ終わりきらない、少年のしゃがれた声だった。
また、どこかで怒鳴り声がする。少年がびくりと左右を見回すが、腰が抜けたようにエムの両腕に縋りついたまま動けないでいる。悪い予感ほどよく当たるものだと内心呆れながら、ルミナはエムの肩を掴んだ。
「行くよ、エム」
「――でも」
「そいつも」
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