ヨアケ(2)

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ヨアケ(2)

 背負った瞬間、拍子抜けするほど軽い身体だった。 「だいじょぶだからね」  気遣わしげに頭を撫でるエムに、うん、ともううん、ともつかない苦しげな息を吐く。ここまでどれほど走って来たのか、背中にある体温も首筋に触れる汗ばんだ頬も、熱いくらいだ。 「こっから交番か……」 「タクシー呼ぶ?」 「とりあえず通りまで出ないとな」  交番まで行くにも、タクシーを拾うにも、場所が悪い。大通りのほうへ首を伸ばすが、ちょうどよく赤色灯が回っていることもなく、しかしこの場を立ち去るのが先決だろうと歩きだす。 「俺、先行って見てくるね」 「――やだ」  エムが離れていったのと、背中で少年が身じろいだのは、ほとんど同時だった。 「なに」 「警察やだ、降ろして」 「おい、暴れんな」 「やだ」  両腕を突っ張って暴れる彼を叱りながら苦心して担ぎなおすのを、一様に背中を縮めて煙草を吹かす仕事上がりのホスト三人組が胡乱げに見てくる。 「大人しくしろ」  我ながらまるで誘拐犯のせりふだったが、これ以上目立っては堪らないと、遠のいていくエムを追ってルミナも足を速めた。  人間を拾って帰ったのは、これで二度目だ。  マンションに着く頃にはぐったりと動かなくなってしまった少年を寝かせ、規則的に寝息を立てているだけだとひとまず安堵し、聞こえているわけもないだろうが断りを入れてから、コートのトグルをひとつずつ外した。予想はしていたが下着も着けない未成熟な裸体が露わになり、彼の汚れた内腿から顔を背けて立ち上がる。 「タオル持ってくる。あと、救急箱か……たいしたもん入ってねーな」  キッチンの給湯器の温度を上げて、タオルを濡らしていると、背後から声がかかる。 「ルミナくん」 「ん?」 「平気?」 「なにが?」 「ううん。俺やる」 「できんの」 「手当は自信ないから、ルミナくんね」 「なんだそれ」  差し出された手のひらに絞ったタオルを載せると、エムはそれを握って、再び寝室に消えていった。  少年の身体の表面を足の裏まで丁寧に拭いたあとエムが、今では勝手知ったるクローゼットの抽斗から出した新しい下着を履かせる。エムがここに住み着いてすぐの頃にも、バレンタインにもらった派手なプリントの下着が役に立ったなと思い出しながら、ルミナは血だらけの両膝に消毒液をかけて、絆創膏と頭痛薬を買い足すくらいでろくに中身も知らなかった救急箱から未開封のガーゼを見つけて貼った。  枕元に肘をついて少年の寝顔を覗き込んでいるエムを残し、寝室を出る。むしょうに疲れた気分で冷凍庫を開けたが食べる気にもなれず、湯船に湯を溜めている間、少年の抱えていたクラッチバッグの中身をひとつずつダイニングテーブルに並べていた。じきに「お風呂が沸きました」と自動音声が流れ、全身を洗って湯船に浸かれば、ようやくひと息つく。ガラスの向こうのシルエットには気づいていた。カタンと風呂場のドアが開くと、真っ裸のエムが入ってくる。 「一緒に入っていい?」 「脱いでから聞くなよ」  ルミナが呆れて笑うと、エムも笑い、ぺたんと椅子に座り込んでシャワーを捻った。 「今日は頭洗っちゃだめなんだって」 「ああ、そっか」  手早く身体を洗ったエムが、湯船の湯をこぼしながらルミナの腕の中に収まる。 「ねえ、あの子、どうするの?」 「……あいつが起きたら考えるわ」  再び疲れた気分がぶり返し、濡れた両手で顔を擦ると、その手首を掴まれて甲にキスをされるから、首を捻ってこちらを見上げるエムの顎先をあやす。 「……なに?」 「んーん、なんでもない」  もう一度、今度は濡れた鼻先に濡れた唇が弾け、堪らず笑ってしまった。細い手首を掴み返し、彼の両手を意味もなく握ったり離したりする。 「ネイル、また剥げてきたな」 「あ、ほんとだ」 「気づけよ」  彼が爪に色を塗るのが好きなのだと知ったのは、最近だ。にぼろぼろになってしまったネイルをホテルで落としたきり――ラブホテルのアメニティをここまで活用するやつもきっと珍しい――塗りなおせないでいたのを、コンビニのマニキュアをひとつルミナにねだって再開したのだ。卵サンドのほかに初めてねだられたのがマニキュアだったのが、おかしかった。 「また塗りなよ」 「ルミナくんは、塗ってるほうが好き?」 「俺はどっちでもいいけど」 「ふうん」 「お前は好きなんだろ?」 「うん」  先のほうの色がずいぶん剥げた爪を指で撫でると、エムはんふふ、と、くすぐったそうに笑った。  少年がひどく気懸かりらしいエムにベッドを譲り、ソファで眠った。うたた寝からそのまま一晩眠りこけることはよくあったが、目が覚めた時の、窮屈さに身体が軋む感覚はいつも心地いいものではない。 「……ん。おはよ」  ルミナをおずおずと揺り動かしたのは、エムではなかった。 「あの、トイレ、借りてもいいですか」 「……そこのドア出て、右」  スウェットの裾を握りしめ、ガーゼの貼られた両膝をもじもじとすり合わせていた彼が、慌てた様子でリビングを出て行く。充電ケーブルから引き抜いたスマートフォンを一瞥すると、アラームが鳴るまでまだ一時間以上ある時刻で、ルミナは伸びをしながら大欠伸をした。  水の流れる音がしてからいつまで経っても戻らない少年へ、廊下を振り返って呼びかける。 「こっちおいで」  ドアの陰から顔を出す彼を手招くと、大人しく近寄ってくる。 「身体、平気?」 「……うん」 「警察に届けなかったけど、いいの?」  ルミナの前に棒立ちになった彼の左頬は、暗がりでわからなかったが赤く腫れている。迷っているのか意地を張っているのか、しばらく目を泳がせたあと、拗ねたように言った。 「……もし警察に言ったら、学校にバラすって」 「脅しだよ、そんなの」  クラッチバッグの中に入っていた彼の身元を唯一示す学生証から、彼が早生まれの高校一年生だとわかった。それを差し引いても小柄で、少女とも少年ともつかない曖昧な幼さのある、まだ声変わりも終わりきらない子供だ。 「でも……学校にバレたら、家に連れ戻される」 「なんだ、帰る家あんの」  皮肉のつもりはなかったが、唇をへの字に曲げて押し黙ってしまった彼に失敗を悟らされていると、脳天気な声が割り込んだ。 「ねー、それよりさ」  とろんと目蓋を落とした寝起きの顔で、ぺたぺたと歩いてくる。 「自己紹介しようよ。名前、なんてゆーの?」  トリートメントの効果も虚しい、ぼさぼさの鳥の巣頭を掻き回しながら、エムがへらりと笑う。 「……タオ」 「タオ、かわいい。俺はねえ、エム。こっちがルミナくん」  北島汰青(きたじまたお)――タオは、エムとルミナを見比べ、行儀よく頭を下げた。 「あの。助けてくれて、ありがとうございました」 「ん。いい子」  ルミナに頭を撫でられて、馬鹿にされていると思ったのかもしれない、むっとしたように見上げてくるから、もう一度柔らかい髪を掻き混ぜてやる。やはり彼はむっとしたように、スウェットの裾を臍が見えるほど捲り上げると、今まで我慢していたのだろう不満を口にした。 「――ねえ、この変なパンツ、なに?」 「かわいいじゃん」  つん、と、今度はエムに尻をつつかれて飛び退き、それから不意に、ぎゅっと眉をひそめてまた両膝をすり合わせる。たぶん、腹の奥に嫌な感触があるのだと思う。皮膚をタオルで拭いたくらいでは、消えない痕だ。  タオにシャワーを勧めて、世話をエムに任せた。  どうやらエムは風呂場の中まで一緒に入ったらしく、タオにはさぞ迷惑なことだろうと思ったが、ルミナが最寄りのコンビニで朝食と湿布を調達して戻る頃には、ドライヤーを構えたエムからきゃらきゃらと笑いながらタオが逃げ、抱き留められてまた声を上げて笑っていた。 「あ、ルミナくんおかえり。卵サンドある?」 「……あるよ」  タオは湿布を貼った頬を時折不自由そうに押さえながら、サンドイッチを齧る合間にぽつりぽつりと話した。  タオは、この街にも、どこにでも、掃いて捨てるほどいる家出少年のひとりだった。知らない大人とデートをしたりセックスをしたりして小遣いを稼ぎ、会ったばかりの仲間と夜を明かした。昨日声をかけてきた男も、その前の日に声をかけてきた男と同じように、タオを言い値で買った。ホテルの部屋には既に別の男が三人いて、タオは自分の不運を呪ったが、抵抗すればもっとひどい目に遭うのは簡単にわかった。 「ひとりは撮影するだけで、ほかの三人とした」  エムがボタンを押して淹れた甘いカフェオレに、タオが何度も息を吹きかける。 「痛いこととかはされなかったけど。ほかのひとが休憩してる間もずっとされて、途中からは訳わかんなくなった」  まったく、頭痛のするような話だった。夢でも見ていると思わなければ耐えられないような時間が、いつまでも続いたのだろう。 「気づいたら終わってて、部屋に僕ともうひとりだけになってて……それで――最初に学生証取られちゃったから、取り返さなきゃと思って……」  煙草を吸う男の背後を慎重に這い、取り上げられた生徒手帳が入っているはずのバッグと、一番近くにあったコートだけを引ったくった。その瞬間に見咎められたが、タオを羽交い締めにした腕に思いきり噛みついて、頬を殴られても振り切って逃げた。シャワーの音が聞こえていたから、別の男が物音に気づいて出てきてもおかしくなかったし、ほかの仲間も呼ばれるかもしれない焦りと恐怖でいっぱいで、どうやってホテルを飛び出したのか、どの路地を通ってあそこまで逃げたのかは、おぼえていないと言った。 「お前の持ってたバッグの中、見たよ。これ」  ルミナの渡したパスケースを両手で受け取って、タオがほっと息を吐く。 「……よかった……ありがと」  その手元を覗き込んだエムが、あ、と声を上げる。 「タオ、俺の後輩だ」 「ほんと?」 「うん。受験がんばったんだね、偉い」 「――うん」  首を竦めて微笑むタオの頭を、エムが慰めるように撫でる。彼の学生証は、名前くらいは知っている、中高一貫の名門校のものだった。  なあムーン、と、死んだ愛猫に語りかける時、いつも人間への失望がある。  人間はいつも、身勝手で汚い生き物だ。  蔑むことをやめられない自分と、信じることをやめられないエムの、どちらがより救いがたいのだろうかと、今、ひどくもどかしく感じる。この目玉を入れ替えたら、同じ景色も違って見えるのだろうか。本当は、彼の見る景色のように色鮮やかで、ぞっとするほど優しい世界なのだろうか。自分たちが似ているとは思わない。でも、違っているとも思えない。だから、理解できないことへの苛立ちが、吐き気のように込み上げるのだろうか。
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