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ヨアケ(3)
出勤前にもう少し寝ようと、空いたベッドに潜り込んだが結局寝つけなかった。
無情なアラームにいつものように渋々起きだして、ハヤシに送った未読のままのメッセージの内容――タオが奪って逃げたクラッチバッグの中身をエムへ簡単に伝え、タオの面倒を看るのを任せてマンションを出た。
いつものようにカウンターに立って、仕事と恋愛の愚痴に適当な相槌を打ち、胡散臭い金とセックスの話には聞こえないふりを決め込み、「ブルーム」のバーテンダーをこなす。
夜明け前の帰路、大通り沿いのコンビニへ寄る足取りが、寝不足のせいか少し重かった。
玄関で靴を脱いでいると、リビングのドアが開いてエムが顔を出す。
「おかえり、ルミナくん」
「ただいま」
暗いリビングを覗くと、ソファのサイズはじゅうぶん足りているというのにタオが小さく丸まって眠っており、思わず声をひそめる。
「ベッド使えばいいのに」
「遠慮してるみたい」
「お前と真逆だな」
「えー? 俺だって、最初は遠慮したよぉ」
愉快そうに反論したエムが、ルミナの脱ぎかけのコートを強引に横取りすると、ぐいぐいと背中を押す。
「なに」
「お風呂、沸いてるよ」
「気が利く」
「へへ」
「で? 一緒に入るの?」
「先に入った」
「そういうことかよ」
ルミナに頭を小突かれて笑うエムには、確かに湯上がりのにおいがほんのりと残っていた。
風呂を済ませ、キッチンのライトだけ点けて食事を摂った。冷凍パスタの気分ではなかったと、フォークに麺を巻きつけては解いているルミナの正面で、エムはプリンを食べている。
「タオ、ちょっと熱出ちゃったから、救急箱の薬もらったよ」
「ん」
「ルミナくん、あーん」
プリンをこぼれそうなほどたっぷり掬ったスプーンが差し出されるのに、苦笑しながらも応える。つるりと口内に滑り込んだプリンをほとんど噛まずに飲み込んだだけのことに、エムは嬉しそうな顔をするのだった。
寝支度を調え、ふたりでベッドに潜り込む。すり寄ってくるエムの、ルミナのつま先をつつく冷たいつま先が、肩口に押しつけられる額が、回された腕が、うなじのにおいが、そんなものはないのに、まるでライナスの毛布のように身体に馴染む気がして内心で笑ってしまう。
耳元を、エムの小さな囁きがくすぐる。
「ルミナくん、平気?」
彼の胸にぎゅっと抱きしめられたまま、その率直な言葉の意味がわからなかった。のろのろと脊髄を伝って前頭葉へ伝わった信号がやがてぼんやりとした理解になり、またのろのろと脊髄を伝って、エムの背中を抱き返させる。
「…………お前は? 平気なの?」
んふふ、穏やかな失笑が、ルミナの前髪をそよがせる。
「へーき」
ああ、こんなにもまともでない彼が、自分を慰めようとしているのだ。
胃の底で渦巻く、吐き気を催すほど疎ましい感覚は、嫌悪だった。愚鈍なふりをしなければ生きていけなかったエムへの嫌悪でも、小さくて憐れなタオへの嫌悪でもない。どんなに押し込んでも、どれだけ時間が経っても、いとも簡単に強烈によみがえる、一生消えない記憶への嫌悪だ。タオを通してあの日を見て、自分はまだ傷ついているのだと、エムに抱きしめられて初めて気づいている。
ルミナの髪を、頬を撫で、エムは歌うように言った。
「ルミナくんの怖いことから、全部、守ってあげられればいいのにな」
「全部?」
「うん、全部」
「そ……」
もう一度強くエムの背中を抱くと、もう一度、んふふ、と笑う。
柔らかい唇が鼻先をかすめ、唇に吸いつく。指と指、脚と脚、髪と髪、舌と舌が絡む。
衣擦れの音と、鼻息と、キスの水音が混じりあって、密やかに満ちる。
はぁ……湿った息が首筋にかかると、腰をくねらせたエムに淡い勃起を擦りつけられる。
「……したくなっちゃった」
「……バカ」
「静かにするから、だめ?」
「静かになんか、できたことないくせに?」
「嫌?」
素肌の脇腹をたどって乳首のピアスを引っ張ってやると、ぶる、と震えたエムは、うっとりと笑ってルミナに馬乗りになった。手と舌で昂ぶらせたルミナにゴムを被せ、はーっ、はーっ、唾液に汚れた唇の隙間から、飢えた動物じみた息を吐く。後ろ手に尻の谷間に沿わせ、ゆっくりと呑み込まれれば、熱い肉を押し入る感覚に知らずため息が出る。
彼の柔らかい尻たぶが潰れるほど奥まで咥え、それから、エムは弾むように腰を振り始めた。
「んっ、んっ……っ」
ゆさ、ゆさ、ルミナを揺さぶりながら、切なそうに自らの胸を弄るのに誘われて、同じようにピアスに貫かれた彼の臍に指を突っ込むと、眉根を寄せて、むずかるように感じてみせる。彼の腰を掴んで突き上げれば、今度は仰け反って、あん、と高く喘ぐ。
「タオに聞こえる」
「だってぇ……ルミナくん……っ」
ルミナを犯すように腰を振るエムの、腹に当たっては跳ね返っているペニスの先端から、透明な涙が垂れている。もどかしそうな腰つきを追いかけてまた突き上げれば、また喘ぐ。
「ぁ、そこ、好きぃ……」
「知ってる」
「ルミナくん、好き」
「……知ってるよ」
「ね、ルミナくんも、好きって言って?」
「そんなもの、ほしいの」
「ほしぃ」
「嘘でもいいの?」
「いいよぉ」
蕩けるように笑い、唇の端から涎を漏らしながら、たったそれだけの言葉を一途に求めてくる。身体を起こしてエムを乱暴に押し倒すと、ふたり絡まったままマットレスに跳ね返される。エムの両手をシーツに縫い付け、ぐっと腰を落とす。
あっ、あっ、あっ、オーガズムへ駆け上がるエムを、ふーっ、ふーっ、一心に追い詰める。垂れた汗が彼の頬で弾け、きつく結んだ指の骨が軋む。エムの瞳は、ただ恍惚とルミナを映している。ヴィンテージの切符のように欠けた耳朶を噛み、舐め、肺の焼けるほど苦しい息と、音を吹き込む。エムはぎゅうぎゅうとルミナを締めつけ、身体じゅうを震わせ、甘く泣き声を上げた。
「おれも、すき」
「……ん」
「――――あっ、ぃく」
達したエムの中で自分も射精し、収まらない息のままふたりで寝転んでいた。わざわざルミナの腕を引っ張り上げて枕にしていたエムは、いつの間にか健やかな寝息を立てており、快感の余韻を残した温かい頬を指先でつつくと、鼻に皺を寄せて煩わしそうにそっぽを向く。笑いを噛み殺そうとして失敗し、くつくつと喉を鳴らしながらルミナはベッドを降りた。
脱いだ寝間着を再び身に着け、リビングを抜けてキッチンで水を一杯飲み、ソファを振り返る。
「……うるさかった?」
背もたれの向こうから黙ってこちらを窺っていたタオは、こくりと頷いた。
「あー、ごめん」
守れもしない約束なんて、エムはすぐに忘れてしまったろう。
タオの横に腰かけると、彼は被った毛布の前をぎゅっとかき寄せて、もごもごと呟く。
「あの」
「ん?」
「ありがと、ございます」
「なに、もう聞いたよ」
「泊めてくれて、あと、ここまでおんぶしてくれたって、エムくんが」
「お前、ちょっと軽すぎるよ」
「……まだ成長期だもん」
「だといいな」
「なにそれ」
またぎゅっと毛布の前をかき寄せ、片方に湿布を貼った頬を丸く膨らませる。ハムスターの頬袋のようだと揶揄ったら、きっと臍を曲げてしまうだろう。
「タオ、なんで家に帰りたくないの」
「……帰っても、誰もいないし」
「ふうん?」
「ふたりとも仕事人間だから。たまに顔合わせても、成績と進路のことばっかり……僕の話なんて聞いてくれない」
「それで、家出したの」
「べつに、初めてじゃない。無断外泊も、エッチしてお金もらうのも。もしかしたらうちの親、まだ僕がいないのに気づいてないかも」
タオは、掃いて捨てるほどいる家出少年のひとりだった。他人から見れば取るに足らない寂しさや理不尽に、きっと懸命に抗っていた。
「俺もエムもさ」
「え?」
「お前なんかより、よっぽどひどい目に遭ってここにいるよ」
ルミナの言葉に、ぱっと、傷ついたような憤るような、恥じ入るような顔をする。
「はは、ごめん、意地悪言った」
彼の寂しさや理不尽は彼のものだ。他人とは決して交わらない。それでも自分たちは、触れあって慰めあうのをやめられない。自分はきっと、そうやってエムに救われている。
「お前、初めてじゃないって言ったけど」
タオの小さな頭に手をやり、生のままの柔らかい髪を撫でる。
「怖かったろ」
「……うん」
「もうやめとけよ」
「…………うん」
「かわいそうなタオ」
くすん、と鼻を鳴らしたタオを、抱き寄せる。薬が効いているのかもしれないが、それでも熱いくらいの生命の温もりがある。ルミナの腕の中で、彼は静かに啜り泣いた。
ひとしきり泣いたタオが、濡れた目をルミナの腕に擦りつけ、顔を上げる。
「……ねえ、ふたりは恋人なの?」
「そう見える?」
ルミナの反問に、小馬鹿にしたように笑う。
「ふたりして、同じ答えだし」
「あーそ?」
「答えになってないし」
「恋人だよ」
ふうん、と、たいして興味もなさそうに頷いたタオの頭をもう一度撫でて、ルミナは大きく欠伸をした。
昼過ぎ、既読になっていたメッセージに気づくより前に、インターホンに起こされた。
「なんで増えてんだよ」
リビングに入るや否や大笑いしたハヤシは次に、タオを背中で庇いながらも不安そうに自分たちを見比べるエムに、人の悪い笑みを向ける。
「んな顔するなよ、エムちゃん。ちょっと寝に来ただけ。車のシートより、膝枕のほうがいいだろ?」
ルミナの腰を抱き寄せ、頬を撫でる。
「こいつを虐める趣味はねーよ」
正反対の性癖と性欲を持つ男は愉快そうに言うと、欠伸をしながら寝室に向かうのだった。彼の上等なコートと背広を脱がせ、ごろりとベッドに寝転んだ彼の脇に腰かける。
「一時間で起こして」
「はい」
「で? 話って?」
「……膝枕する?」
「ついでに子守歌でも聴かせて」
冗談とも本気ともつかない口調で言って、ルミナの膝に頭を乗せると、うっそりと目を瞑る。
タオのことと、タオの持っていたバッグの中身について伝えた。バッグの持ち主の物であろう免許証と、いくつかの小物についてだ。手巻き煙草用の道具と、ガラムよりも甘ったるいにおいの葉っぱ、電子煙草用のフレーバー・リキッドはそれと同じか別の何かなのか、ラベルには白々しくキャラメル・マキアートと書かれていた。バッグを持ち逃げしたタオが執拗に追いかけられたのは、これが理由でもあったのだろうが、ハヤシにとってそう実のある話ではなかったかもしれない。静かに寝息を立て始めた彼の、冷たく秀でた額にかかる一筋の髪を払い、ルミナはカーテンの向こう、無秩序な街の明るい空を振り返った。
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