ヨアケ(4)

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ヨアケ(4)

 サラリーマンがモーニングを食べるような時刻、仕事明けのまま寝ずに待ち合わせ場所に向かった。全席喫煙可の小さな喫茶店は、扉を開ける前から中がうっすら白く曇っているような有様で、老齢のマスターに声をかけられながら見やった店内の奥で、タチバナが軽く片手を挙げて寄越す。  ルミナがブレンドコーヒーを注文する向かいでクラブハウスサンドを齧っていた彼は、スーツの胸元のパン屑を手で払うと、咀嚼の間から言った。 「俺は少年課のお巡りさんじゃねーんだぞ」  開口一番の叱責は、挨拶のようなものだ。 「文句言いつつ来てくれるんだから」 「いい人だろ?」 「本当にいい人は自分で言わないんじゃないですか?」 「ハヤシは、お前のそういうところがいいんだろうな」 「さあ」  灰皿でじりじり燃えていた煙草を咥えなおしたタチバナが、ケースから出した真新しい一本を向けてくるから、礼を言って受け取る。火の付いたライターに先端を近づけ、吹かし、ラッキーストライクの味としか言えない味を口に含んで吐き出した。  コーヒーを啜るタチバナに目で促され、背もたれの隙間に置いたバッグを手渡す。 「直接タチバナさんに預けろって」 「そ。で、こいつは?」  まあまあ洒落たデザインのクラッチバッグをためつすがめつしていたが、やおら免許証を探し当て、今度はそれをまじまじと眺める。 「家出少年に声かけて、ホテル連れ込んで、ビデオ撮って儲けてる悪い大人」 「胸糞悪ぃ。ついでにジャンキーか。ホテルの名前は?」 「入り口に椰子の木が生えてたことしか、おぼえてないそうです」 「いくらでもあんだろ、そんなホテル」  エムも同じことを言っていたと、ふと思い出して内心で笑う。 「詳しいですね」 「職業柄な」  苦々しく顔をしかめたタチバナは、バッグの中の小物をひとつずつ摘まみ上げながら、ついでのようにごく軽く告げた。 「北島汰青、家族から届けが出てるよ」 「……あの子のこと、任せていいですか」 「管轄外だぞ」 「いい人なんでしょ? 信用してます、タチバナさん」 「よく言うよ。こういう時は、俺を頼るんだな」  一際苦々しそうに、一際大きく明後日のほうへ煙を吹き上げたタチバナは、ルミナを横目に見ると、口の端をにやりと歪めるのだった。 「藤島くんは? 元気?」 「……おかげさまで」 「そりゃ結構」  さて、後日談というほどのことは、何もない。  たった二晩預かったタオがいなくなると、すぐにまた日常は元通りになった。少年がその後どうしているのか、親とはどうなったのか、学校には通っているのか、知る由もない。  ついにエムの熱意に負けて足を運んだ百貨店の催事場では、整理券の出るような貴重なチョコレートこそ手に入らなかったが、彼は自身の戦果に満足そうにしていた。自分からねだっておいて、ルミナがチョコレートを渡すと、シーズンのフラペチーノを最後にもう一度飲んでいたエムは椅子から飛び上がらんばかりに喜んだ。  自分は例年どおり派手なプリントの下着と、少し前に吐いた新しい猫を飼っているという嘘が巡り巡って噂になり、猫用グッズをいくつかもらうはめになった。いや、偶然ではなく、彼女たちからの意趣返しかもしれないけれど。  プレゼントをまとめて突っ込んだ一番大きな紙袋の中をひとつずつ見て笑っていたエムが、猫じゃらしのパッケージを振りながらルミナを見上げる。 「猫飼う?」 「俺、飼ったら溺愛するけど。寂しがらない?」  エムの新しいピンク色の髪を撫でて揶揄うと、快げに目を細め、頭を擦りつけてくる。それからルミナの膝によじ登り、頬に頬をすり寄せる。のしかかる重さも、腕の中の体温も、触れた肌から伝わる脈動も、生命そのものだ。エムは甘えるようで泣きだしそうな声で、うっとりと呟いた。 「きっと、今よりずっと、寂しくなくなるよ」
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