イツカ

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イツカ

 煙草の灰を丁寧に落として、再び吸い口を唇に近づける。煙草を挟む指も、細く煙を吐く唇も、伏せた目も、黒い宝石を嵌めた耳朶も、爪の先から頭のてっぺんまで美しい男だ。 「――橘さんって、煙草吸ってましたっけ?」  ふと閃いたように発する声すら冷艶な彼は、まったく、何年付き合ってもこちらにたいして興味などないのだろう。 「今かよ」  煙とともに失笑を吐き出し、肩を竦める。 「本庁勤務になって、五年続けた禁煙が終わった」 「出世も大変ですね」 「そうでもねーよ」  うわべだけの相槌に苦々しく答えると、彼はふふっと笑って、細く煙を吐いた。  林に「ブルーム」のバーテンダーを紹介されたのは、三年ほど前だったろうか。林の愛人は何人も見てきたが、振る舞いの利口な男ではあっても、その時の彼は飛び抜けて印象的というほどではなかった。歴代の愛人の中には、小さなニュースになって失踪した者もいれば、ある日ショッピングビルの壁面広告に大きく映しだされた者もいる。  小津月光成(おづるみな)に関わる調書を閲覧して、印象は少し変わった。彼の押し込めている激情や憎しみが、彼の冷淡な美しさの源なのかと想像して、それを押し込めているのが自制心であれ諦念であれ、なるほど林が気に入るわけだと納得したし、そういう人間ばかり囲いたがる林の悪癖にうんざりした気持ちにもなった。  シンパシーほど近くないが、エンパシーほど遠くもない、奇妙な同情もあった。彼が聞けば、またきっと、鼻で笑うのだろうが。  語って聞かせるほどの身の上話ではない。  物心つく前に両親が離婚し、母と姉と自分の、ごく普通の母子家庭で育った。  姉弟喧嘩もしたが、成績優秀な姉は自慢の存在だった。姉は母と同じく看護師を目指して進学し、次第に帰りが遅くなった。バイトと言うのが何回かに一回は方便であるのはいずれ察しがついたが、それまで弟の面倒を看るばかりで彼氏のひとりもいなかった反動だろうと、色気づいた姉を茶化した。化粧や服が派手になり、家に戻らない日が増え、泥酔した姉を何度となく迎えに行かされた。気がついた時には手遅れだった。薬物の過剰摂取とリストカットで救急搬送された姉は、面会謝絶になった。搬送先は奇しくも母の勤める総合病院で、スクラブ姿の母の呆然とした顔が忘れられない。  姉の遊び仲間に聞き回って、姉の恋人が界隈で名の知れた売人であるらしいと知った。皆、気の毒がってみせたのと同じ口で、揃って姉の自業自得だと言った。無理矢理飲まされたわけでもあるまい、を使って気持ちいいセックスをしたのだろう、と。そして揃って、行方をくらました男に関しては話したがらなかった。  嗅ぎ回るうちに目をつけられ、警告を受けた。それは端から暴力だった。剣道部の特待生だったから、素行が明らかになれば退部どころか退学処分だろうが、関係なかった。掴んだ物が何だったかもわからないまま、見ず知らずの男たちを殴り、殴られ、共倒れになった。繁華街にあるビルの二階、何年も前にゲームセンターが閉店したきり空きフロアの、埃と吸い殻まみれの冷たいコンクリート床だった。  こだまのようにどよめきが広がるのに、ぼんやりと顔を上げる。 「舞歌(まいか)の弟って、お前?」  場違いなほど明るい声だった。血と汗で滲んだ視界でほとんど姿は見えなかったが、ごく若い男だと思った。もう力など入らなかったが、なんとか振り上げようとした拳を男の靴の裏で踏みつけられて、割れた瓶を握りしめたままだと知った。これ以上感じる痛みなどなくても、肉が裂けて骨の軋む感触はあった。自分はただ、朦朧とかすむばかりの男のシルエットを睨みつけていた。 「お前、名前は?」 「……聞いてどうすんだよ」 「呼ぶんだよ、決まってんだろ」 「…………言うかよ」 「そ。じゃあ、舞歌の弟」 「……賢人(けんと)」 「ケント。お前の姉ちゃん、目ぇ覚ましたってさ」  朗報は、やけににやついた男の声でもたらされた。 「……お前、何なの」 「何だと思う?」 「知るかよ、俺が聞いてんだけど」  はははっ、と、また場違いなほど明るい笑い声が響く。 「生意気――あのバカ探してんだって?」  尋ねられればすぐに、いくらでも、怒りは再燃する。間近にある男の表情はわからなくても、とっておきの冗談でも聞いたように、愉快そうに笑っているのがわかる。 「だったらなんだよ」 「パクられたよ。出てきたら、会わせてやろうか?」 「なんのつもり」 「べつに。制裁なんて誰が下しても一緒だろ」 「意味が違う」 「意味なんて必要?」  機嫌良く笑っていた男が、一転、冷ややかに言い放つ。いや、そんな優しい言葉では表せない、一瞬で凍りつきそうなほどの冷酷さだった。 「――ああ、お前が、ハヤシ」  誰も彼も、好奇と畏怖の入り交じった表情で、声をひそめて彼の名前を口にした。焦点の合わない目を凝らせば、確かに、どこにでもいる今どきの大学生のようにも、この辺りの地下を仕切る若き胴元のようにも見える。 「その目」 「なに」 「ぞくぞくする」  ひんやりとした手に、頬を掴まれる。その乱暴さに、傷だらけの口の中にまた血の嫌な味が滲む。 「なあ、ケント。お前、俺のオトコになる?」 「はぁ? なるかよ」  はははっ、発作のように高らかな嘲笑に、むしょうに腹が立った。吐き捨てた唾が、男の薄い頬に垂れる。血の混じった唾を拭った手のひらへちらりと目を落とし、彼は今度、声もなく深く笑った。 「気が変わったら言えよ」  それが、林皓然(はやしこうぜん)との、最低で最悪の出会いだった。  コーヒーカップが静かに置かれる音に、ふと我に返る。 「そろそろ行きますね」 「ああ、じゃあな――いらねーよ」 「経費で落ちます?」 「年上には奢られとけ」  笑いながら千円札を引っ込めた小津が、席を立つのを見送る。見映えのいい後ろ姿が立ち込める紫煙の向こうへ消え、カラン、ドアベルがひとつ鳴った。  手元に残ったのは、彼から預かったバッグと、飲みかけのコーヒーと、吸い殻だらけの灰皿と、白昼夢じみた記憶の余韻だ。  語って聞かせるほどの身の上話ではない。  一命をとりとめた姉は、地味で気弱で優しい男と春に結婚する。母は勤務先の病院で看護師長となり、自分が挙式するわけでもないのに、着物を着るからと当日に向けて髪を伸ばしているらしい。自分はあの出来事をきっかけに警察官を目指し、昨年からとうとう本庁の配属となった。たったそれだけの話だ。  スマートフォンが震える。着信画面には、林の名前がある。今日こそ自宅で眠れるはずが職場に引き返すはめになった恨みを、この男にだけはぶつけないと気が済まない。軽く息を吸い、通話ボタンを押した。 「おい、お前のせいで――――」
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