下駄箱から始まる恋

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「ねえ小橋くん。波の音聞きに行かない?」 寝て起きて野球して寝て起きて野球した夏休みが終わり、二学期が始まったばかりの放課後。 練習が終わって下駄箱で靴を履こうとしていたら背後から声をかけられた。 振り向くと、同じクラスの武本由梨が照れくさそうに立っている。 武本由梨。高校に入学してから一年半、クラスメイトにも他の野球部員にも言わず、僕がずっと密かに思いを寄せている女の子だ。 「うん?」 武本由梨に限らず、母親と妹以外の女子とは「うん」「どもっす」「プリント回収します」の三単語しか発しない、と仲間達に馬鹿にされている僕だ。 そんな数少ない手持ちの中から、この場面で唯一使えそうな言葉を疑問系に変換させて精一杯の返事をした。 「なんで話した事すらない僕を誘ってくれるの?」 「そもそも僕の名前知ってくれてたの?」 「好きな人はいますか?」 「まさか、僕の事…」 聞きたい事は水道の蛇口を急に限界までひねったみたいに溢れてくるけど、なんせ僕には三単語しかない。僕は高校に入るまで一体何を学んできたんだろう。 「夏の終わりの波の音って心に沁みるんだよ〜。行く?行かない?」 そう言って武本由梨はひひひ、と笑った。 ちょっとだけいたずらっぽくて無邪気な笑顔。 この少し独特な笑い方を見た日から、僕は武本由梨の事を目で追うようになり、気づいたら目が離せなくなっていた。 同じクラスの渡辺さんや大島さんと笑っている武本由梨の事はいつも教室の端から見ているけど、今は手を伸ばしたら触れる事ができそうな距離で僕に向けて僕だけに笑いかけてくれている。 「イク、ナミノオト、キキタイ」 一年半で三単語しか生み出さなかった僕の口から文章が飛び出した。 応援しているプロ野球チームに今年入団したドミニカ生まれの選手のヒーローインタビューみたいな喋り方になっちゃったけど、遂に単語じゃなく文章を発する事ができた。 「ひひひ、なにその話し方、変なの〜」 武本由梨の薄くてつるんとした唇の右端と左端がさっきのひひひよりもさらに少し上にクイっと持ち上がる。 その笑顔を見た瞬間、僕は全身がグワッと一気に熱くなった。 「決まり!じゃ行こっか」 武本由梨はそう言うと、シュッと一直線に伸びた背筋でタタタッと軽やかに下駄箱の出入り口へと向かって駆け出した。 「い、今から?」 武本由梨の背中を慌てて追いかける。 武本由梨が背を向けた事で目が合わなくなり少しだけ緊張が解けたのか、さっきよりもスムーズに言葉が出た。 「そうだよ、行かない?」 武本由梨が立ち止まり、振り返って僕を見上げて言った。 急に立ち止まってしまったから僕はダッシュから慌てて停止したけど、距離感が掴めず二人の距離が手押し相撲できる程に近くなる。 再び目が合った事も含め、僕の身体は一気にギュッと緊張する。 三単語どころか一つも言葉が出なくなった僕を武本由梨は少しの間無言で見つめ、 「小橋くん」 「ナ、ナンデスカ」 「靴、まだ右しか履いてないよ。とりあえず左も履こっか」 靴を履いてるか考える余裕なんてあるわけなかったけど、そういえば履き替えている途中だった。 靴下についた砂利をばばばと慌てて払い、右手に握っていたスニーカーをばばばと適当に履く。 やべ、汗拭きシートしてないや。使っておけばよかった。 髪の毛もセットしておけばよかった。いや、坊主だった。 そんな事を考えながら、再び歩き出している武本由梨の背中を追うように下駄箱を出て校門前に差し掛かる。 すると、一緒に帰る為に僕を待っていてくれた野球部のみんなが驚愕の表情で僕と武本由梨を交互に見… 「おせえぞ、小橋!コロッケパン食って帰ろうぜ!」 キャッチャーの千葉健が僕に向かって声を張り上げる。 驚愕の表情を浮かべるどころか、いつも通り、練習終わりで疲れてるけどどこか晴れやかな表情をしている。 コイツには僕の少し前をタタタと歩いている武本由梨の姿は見えていないのか? うん、見えていない。 でも見えなくて当たり前なんだ。 だって武本由梨はここにいないんだから。 女子とまともに会話できない僕に、かわいい女の子が下駄箱で声をかけてくれるわけないじゃないか。 これは僕のささやかな青春の妄想だ。 うん、いつも通り。日常。 「食って帰ろうぜ!」のセリフが、日によってコロッケパンかハンバーガーかアイスかラーメンになるかの違いだけ。 「今日はハンバーガーにしようよ」 と千葉健に返事をし、野球部のみんなでゾロゾロと校門を出る。 今日も、きっと明日も明後日も同じように。 現実の僕はといえば、ひひひと独特な笑い方をする武本由梨の事を明日も教室の隅から見つめるだけ… いや、それすら妄想だ。 だってそもそも男子校だし。
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