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第一話「妄想とフリーズの彼方に」
第1話「妄想とフリーズの彼方に」
ひらひらと白い蝶の舞踊る脇を触らぬよう、当たらぬように身体を半身に構えた青年が、蝶をやり過ごし、まるで一つ仕事を終えたかのような息を吐き、空を見上げていた。
男の名は、「柊重三郎(ひいらぎしげさぶろう)」。
先祖の、関ヶ原の戦いで功績をあげた侍から拝借したという古風な名前は、現代では、人の良さと相まって、むしろいじめといじりの対象にしかならなかった。
しかし、彼は持ち前の勤勉さで、見事に成長を果たしたといえる。
と、すれ違う女子生徒がこうべをたれる。
「先生、おはよう御座います。さっきの、なんの動きですか?」
「おはよう! いや、蝶のカップルがいたからね、蹴散らさないようにさ」
「へんなの笑」
「いやいや、彼らからしたら僕らなんて怪獣みたいなものだからね」
成長……そう、一人前の高校教師として勤続8年を積み重ねる程にである。
「しっかし地球温暖化って言うくらいなんだから衣替えの時期も変えてくれりゃあいいのになあ。昼間はもう背広じゃ暑い…」
ところで、彼には二つの秘密があった。
一つは、超がつく程の妄想癖があるという事。
もう一つは……およそ普通の人間が持っている特技と全くベクトルの違う特殊な技を備えているという事である。
この特技に関しては後ほどに触れるであろうが、神は人知を超えた
この特殊能力を授けたのか。
されどこの能力が、彼に訪れた数多の危機を乗り越えてきた武器であった事に間違いは無い。
さて、彼の教室は3年a組。
今時の少子化のおかげで、B組は無い。
教室前に到着した柊がいつものように深呼吸をして、教室の引き戸をあける。
「おはようー……う?」
いつもとは違っていた。
男子生徒達が、何かを囲んで追い立てていたのだ。
「なんだなんだ?」
男子生徒の一人、米山がこちらを向いた。
「ヤモリが居たんで女子がパニックになりまして、つぶそうかって」
柊は目を向いて動揺した。
「ええっ!……だ、だめ!そういう意味の無い殺生はだめだよ!」
全く響かない、といった顔で米山が続ける。
「なんでですか」
「いいかいみんな!このヤモリを殺したりすると!ヤモリというのは家を守ると書くんだよ?家に住む害虫を食べてくれるんだ。だから、害虫が増えてしまうだろ? 学校には花壇も畑もあるし、害虫が増えると」
遮るように、米山をいつも従えているリーダー格・山城が口を挟む。
「じゃあやめるけど。センセ、なんとかしてくださいよ」
いつもこうだ。
長い長い話を遮られ、全て自分に投げられるという毎回毎回のこのパターン。
話を最後まで続けられる確立は、もしかして2割も無いんしゃないだろうか。
思えばこの問題は亡くなった両親が教育者だったからに違いない。
それどころか…
「先生?」
「あ、ああすまない」
「またフリーズですか?1日三回はフリーズしてますよ!」
だがこうして山城が明るく笑ってくれるからこそ、日々柊は救われていた。
これが教師と生徒の理想の関係と言うならば、彼は実に見事な運により、それを手に入れていたという事になる。
理想の教師生活。
この日・4月22日の放課後までは、という注釈がつく。
朝の時点では、よもやこれほど大きな問題の渦に自分が巻かれているとは、夢にも思っていなかった。
明日も明後日も、ルーチンのような日々が続いていくと柊は思っていた。
だが、結果的にそちらが妄想になるとは。
それは、夕日も落ち始めた、下校時の事だった。
柊はこれまた日々のルーチンとなっている、お気に入りの焼き鳥屋、「日いずる」に向かおうとしていた。
「なんだ!こののどの渇きは異常!……まあ、今日は暑かったからな」
何故だか、その日は無性にのどが乾き、、店に着く前に何か飲みたくなった。
コンビニで発泡酒を買おうとすると、入れ違いでドアから出てきた若い女性がこちらを見てこういった。
「あら、先生!」
たしか数年前の卒業生だったか?とっさには名前が思い出せない。
「あ!ああああ、君、元気かい?」
「ええ」
ショートカットの彼女は、CM女優のような、光あふれる魅力的な笑顔で彼女は会釈して去って行った。
柊は、発泡酒を買う前で良かったとつくづく思った。
やはり歩き飲みなんて、教師のやる事ではないんだ。
発泡酒を買う前に自分を知った顔に見られた。おまけに美人。
きっとこれはいろんな意味で運が良かったと思う事にしよう。
買い物をあきらめ、コンビニからきびすを返して、居酒屋の方角に向かうと、15メートル程先に先ほどの彼女の背中が見えた。
あんな美人とこの後飲めたら…いやいや、十分今日は運が良かったんだから、
そこまで望むまい。
教職は聖職。
両親の口癖が、いつのまにか自分の座右の銘になっていた。
世の中には教職に着いていながら女子生徒と関係を持つ不貞の輩がいるというが、そんな奴は摘発されろ、まったく……
本日何度目かの妄想が渦巻き始めたその時。
柊の脇をスーッと黒いワゴンが追い越した。
彼から15メートル程離れて更に減速すると、名前を思い出せない美人の卒業生の隣で、ドアが開いた。
「あれ?」
ドアの中からは、腕の太さは柊の2倍はあるであろう屈強な2人の男が、彼女の地区を塞ぎ、腹に一撃を加え、車に押し込んだ。
これは、どうみても拉致である。
「ま、待てっ!」
柊は走り出していた。
勝てる筈も無い戦いに向かって。
そして男達は、薄ら笑いを浮かべ、柊を待ち受けていた。
一人は、彼女を抱え、もう一人はサバイバルナイフを構えながら……
続く
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