1人が本棚に入れています
本棚に追加
雫
それは、女神がいると言う森の中。
と言っても、その姿を見た者はいない。
昔はいたらしいけど。
今はもう、いないのかもしれない。
静かな滝壺のほとり。
フクロウが泣いていた。
涙の落ちる音がする。
寝床に差し込む月明かりが眩しくて。
目を閉じてもジリジリと、白い光がこっちを見ていて。
身体が熱を持っていた。
頭も。
目も。
天幕を開け放って夜風を招き入れても。
一向に冷めてくれなかったのだ。
森に入ると、裸足に感じる土が冷たかった。
足の裏まで脈打つように熱い。
腰に差した短剣に、虚しくなる。
青白く照らされた滝にたどり着いた。
岩の上に腰かける。
腰布が突っ張るので、短剣を抜いて傍の岩に置いた。
一息ついた時。
月が。
こちらを見ていた。
滝のせいで木の葉の屋根が少し途切れて、その丸い目が、こちらを見下ろしていた。
しばらくの間、目が合っていた。
いつのまにか、フクロウの声がしなくなっていた。
「あまり見ているなよ。
目に毒だ」
その声は、急に背後から降って来た。
「誰」
飛び上がって振り返った拍子に、短剣に足がぶつかった。
チャポンと情けない音を立て、唯一の武器が滝壺に落ちる。
しまったと思った後で、言葉を発する人間相手には不要だと思い直し首を振る。
そもそもあの短剣は、もう捨てようと決めたものだ。
ずっと昔、父が作ってくれたもの。
12歳の祝いにと、先日腰に差したばかりだった。
もう使うこともない。
「村の子どもか」
木の影から姿を見せた声の主は、長い衣をまとった男の姿だった。
「こんな夜に出歩くものではないよ。
まして月を見ているなんて。
満ちた月と目を合わせてはいけないと、
老人たちに教わらなかったのか?」
「あなたはいいのか?」
そう問うと、男は笑って月明かりの前に進み出た。
「俺はいいのだよ」
足場の悪い深い森を歩いてきたのだろうに、息も上がらずに涼しい顔をしている。
「なぜこんな夜に」
「眠れなくて」
岩の上で、熱い身体を歪めた。
汗があごを伝って膝に落ちる。
苦しい。
「眠れない」
ようやく男にも見えたらしい。
「それは…」
右腕を見ていた。
正確には、右腕が無いことを。
「獣にやられた。
耳と、背中も齧られて」
おとといの夜のこと。
暗闇から現れた姿も見えない獣に、肩から先を持っていかれた。
髪をかきあげ、顔面の傷も見せる。
男は、ゆっくり近づいてきた。
長い衣は、見たことのない刺繍が施されていた。
その長い袖から指先を出す。
「気の毒に。
痛むのか」
そっと。
顔の傷に触れる。
「村の奴らは自業自得だと言った。
女のくせに狩りの真似事などするからだと」
いく筋もの牙の跡。
喉元を食い破られないよう、残った左手で獣の口と首の間に短剣を入れた。
砕かれた腕の骨が、口の中で転がって音がしていた。
「父さんも、
父さんの父さんも同じ。
獣に喰われて死んだ。
私の血肉は美味しいんだろうよ」
男は少しだけ、すんと匂いを嗅いで。
何も言わずに笑った。
触れる男の手からは、何か植物の匂いがする。
「あんたは一体何者?」
見たことのない刺繍。
見たことのない顔。
狩りなどしなそうな細い身体。
着物の袖から見えた手には入れ墨。
「それ、母さんや村の女の手と同じ」
手の甲に、骨に沿って入れる5本線。
その間を縫う蔦模様。
手は白く骨貼って、冷たい。
入れ墨に触れる。
左手が。
震える。
「綺麗だね」
震える。
「横になりなさい」
男の長い衣を枕に。
岩の上に横たわる。
「知っている?
ここには女神がいると、
村の奴らは言うんだ」
男はくすりと笑った。
「女神などいないよ。
いるのは獣たちだけだ」
「女神の涙はどんな病にも効く薬になるって」
「ただの毒さ」
自分の身体から腐臭がする。
「…死ぬのは怖くない。
この苦しみを終わらせたくて」
それでこの滝壺に来たんだ。
あの短剣だけが、先に行ってしまった。
「…女神の毒を飲むか?」
「女神はいないって」
「苦しみから解放される。
飲めば15日で死に至るけれど」
「そんなに生きられないさ」
数日のうちに、この身体は腐って死ぬ。
男は、その刺青の入った手を空にかざした。
月の輪郭をゆっくりとなぞる。
なぜか。
見ているだけでひんやりと。
その指先が凍えるのが分かる。
おろした指先に。
ひと雫の、銀の光。
それが舌の上に溶け。
ぐにゃりと。
景色が歪む。
確かに毒だ。
熱も。
痛みも。
遠のいていく。
「眠りなさい」
見上げた月は。
ひと雫の分だけ僅かに。
その銀色の目を伏せていた。
満月が、欠ける瞬間。
最初のコメントを投稿しよう!