夏と秋が切り替わる瞬間がわかる人

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 カレンダーは1つめくれば季節が変わる。晴天の空と波打つ海、そしてはしゃぐ子供たちが、秋空の下で紅葉をしっとりと見るようになる。砂浜に顔以外を埋められて悲鳴をあげていた男の人が、月夜の光を頼りに読書をしていたりする。色も、人の表情も全てが変わる。8月31日から9月1日にかけて、全てが変わる。  そんなわけはないと思っていた。たった一日で全てが変わるわけがないと僕は思っていた。8月31日に七分袖を着たら暑いし、かといって9月1日に着ても暑い。正解は日付単位の「点」ではなく、一週間くらいの「線」でやってくるはずだ。  そんなことは頭の中では理解できているんだけど、結局僕は8月といえば夏、9月といえば秋の固定概念を捨てられずにいた。そう、彼に会うまでは。    彼は「僕は夏の終わりと秋の始まりがわかるんだ」と言った。どういうことかと僕が尋ねると、彼は「そのままのとおりだ」と言った。これじゃ埒が明かないと思い僕が折れた。 「てことは、メディアの号令や周りの雰囲気は関係なく、本当の秋の始まりがわかるってことですか?」  彼は頷いた。こっちが喋ってるんだから喋り返してこいよと僕は思ったが、興味があったので折れ続けた。 「一日単位でわかるってこと? それとも時間単位というか、秋が来た瞬間がわかるということ?」 「後者だ」 「いつからそんな能力があるの?」 「中3の夏から秋に変わるときからだ」 「そのときなんて思ったの?」 「あ、秋が来た、と思った」 「夏から秋に変わったと判断する基準はなに?」 「もちろん、気温、湿度、日暮れの早さなど様々な理論的な要因もあるが、一番重要なのは俺が感じたそのときの空気感だ。俺は秋が来た瞬間、肌がピクッとなり『秋だ』と本能的に感じる」 「なんかスピリチュアル的なことってこと?」 「少し違う」 「じゃあ肌が静電気みたいなのを感じるの?」 「うーん、少し違う。それだとスピリチュアルのほうが近い」  質問ばかりして、逆に関心がなくなってきたと思った頃、僕はその日が9月4日だったことに気づいた。ちょうどいい頃合いではないか。 「じゃあ、今は夏なの? 秋なの?」 「秋だ」  彼は力強く答えた。おかしい。可能性としてはどちらか半々を覚悟していたのに、なぜかその答えを自分で予測できていなかった。  秋か。話が進まないではないか。夏から秋に変わるその瞬間を見届けられないではないか。 「今年はいつ秋になったの?」 「変わった瞬間に一緒にいないと教えてあげれない」  僕は彼のことを冷たくなった使い捨てカイロのような目で見て、それきり彼の元を去った。  翌年の夏の暇で暇でどうしようもない日曜日の昼下り、彼のことを思い出した。そうだ、去年あんな変なことを言ってるやつがいた、と。その日は8月17日だった。  少し早い気がするが彼に会いに行くことにした。その瞬間を見逃すと、また一年待たないといけない。彼は一年に一回だけ咲き誇る花のような気がした。その花の名前は知らないし、そんな花があるのかも知らないが、たぶんあるだろうと思った。桜とは言いたくなかった。日本人としての桜への憧憬は自分にもあるんだと気づいた。  去年彼に合った、こんな町全体が見渡せる場所あったんだと思った原っぱに行ってみたが、彼はいなかった。だがそこから少し離れたところにある東屋に彼はいた。一年ぶりに見る彼は、一人で座って、片肘をついて掌を頬に添わせていた。視線は空を見ていた。 「夏ですか?」  僕は彼に近寄って訊いた。挨拶もしないほうがドラマティックかなと思ったので、第一声から訊いた。ドラマの主人公になった気分だった。相手が彼だったのが少し癪だった。 「夏よ」  彼はその佇まいだけでなく、口調も女になっていた。 「性別変わりました?」 「変わったわよ」 「いつから変わったんですか?」 「変わった瞬間に一緒にいないと教えてあげれない」  僕はまた宿題を一つ追加された気分だった。夏休み前の最後の授業の日、各教科の先生たちがニヤニヤしながら宿題を指示してきたことを思い出した。あれは悪趣味だ。  僕は今度は彼女の元を立ち去らなかった。東屋に入り、僅かに空いた彼女の横のスペースに座った。屋根の隙間から夏空が見えた。 「秋が来る瞬間までここにいてもいいですか?」 「いいわよ。むしろ、少しそれを望んでいる私がいるわ」  結局その日は、東屋の中の小さな木の机の上で、コンビニで買って温めたパスタを食べた。木の机も、まさか自分の上でコンビニのパスタを食べられるとは思っていなかっただろう。僕はミートソースを食べたが、彼女はきのこのスープパスタを食べた。 「きのこってことは、そろそろ秋が来るってことですか?」と僕は訊いてみたが、彼女は困った顔をするだけだった。  机が小さすぎて、二人同時に食べているとパスタが容器ごと落ちそうになるため、僕は彼女に「先に食べてください」と言って、一旦ミートソースを諦めた。食べかけのミートソースを両手で抱えて待った。紳士と侍のちょうど中間のような表情で待った。だが彼女は食べるのが遅かった。こんなことで秋はやってくるのか、と僕は少し不安になった。  だが最後の大きなきのこを口に含んだとき、彼女はピタッと止まった。固まったという感じだろうか。僕は期待した。もしかして秋が来たのではないか。だって彼女は、秋の味覚であるきのこを食べきったんだ。吹く風が急に涼しげに感じた。  すると彼女の口から、きのこのかさの部分だけがニョキッと出てきた。 「このきのこ美味しくない。まずい」  彼女はそう言った。僕は肩を落とした。風がまた生ぬるく感じた。このまま、こんなすかし漫才のようなことをされ続けるのだろうか。不安になった。  彼女は最後のきのこを、コンビニの袋の中にペッと吐き出した。なぜか汚いとは思わなかった。このときのために、わざわざ有料のレジ袋を買ったのか、と合点がいった。スープをグビビと飲み切る姿は子どものようだった。容器をレジ袋に入れると満足げな表情をしていた。  僕が「僕も食べていいですか?」と言うと、彼女は「あっ、忘れてた」と小声で呟き、レジ袋を下げた。ミートソースを再び口にすると、まだ温かった。そりゃ秋にはまだ早いわ、と思った。  翌日の8月18日も秋は来なかった。僕は前日の反省を活かして、箸が必要なものは買わなかった。パンやおにぎりを中心に献立を組み立てた。それでいて、三食きちんととった。彼女もだった。彼女は朝以外は箸が必要なものを食べていた。  夕方、退屈だったので「夜は来ましたか?」と訊いてみた。彼女は「まだ来ていない」と答えた。一時間後「夜は来ましたか?」とまた訊くと、彼女は「来た」と答えた。 「なんで来た瞬間に教えてくれなかったんですか?」と僕が息を荒げると、「君がそう言わなかったから」という冷たい言葉を与えられた。僕はまた一つ宿題が増えた気がした。 「じゃあ明日以降は、夜が来たその瞬間に、『夜が来た』って言ってくださいね」 「わかった」 「もしかして季節が夏から秋に変わったときも、僕が訊くまで答えるつもりはなかったってことですか?」 「そのつもりだった」 「駄目ですよ、秋が来た瞬間も同じく『秋が来た』って言ってください」 「わかった」 「秋が来た」  秋が来た。  少し残念に思ったのは、僕が夏好きだったからだろうか。それが違うと気づいたのは、次の夏だった。  僕は訊いてみた。 「僕のこと、好きになりましたか?」
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