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1純夫
多分、間違いない、と思う。
T-駅のホームで見かけたのは晃一だった。
ゆったりしたポロシャツの涼しげにあか抜けたいでたちで、連絡通路から階段を降りてホームにやってきた。
面影は確実に残っていた。
元々、女の子に比べて男の顔は成長しても大して変わらない。
小学生だった頃の面影は確かに残っていた。
晃一と一瞬目が合ったけれども、すぐに目線は外れてこれからやって来る車両を待って線路に顔を向けた。
多分、晃一だった。
離れた距離でも分かる。
クラスで仲間外れ、友達のいなかった俺と、ただ一人遊んでくれていた晃一だった。
あの夏の終わりの日を境にどうしてか俺から去ってしまった。
……向こうは俺の顔を忘れたのだろうか。
あいつの乗る車両まで移動しようか、傍まで行って声をかけてみようか……そんなことを考えたけれど、俺はその場で電車を待ち続けた。
別人ではない、と思った。
そして目の合った時に、向こうも俺のことが分かっただろう、と思った。
でもそのまま何もせず、俺が居なかったように顔を背けた。
こちらは懐かしく話しかけようとしたけれども、向こうはそうではなかった、ということだ。
こちらはまだ友達と思い込んでいるけれど、向こうはそう思わず疎ましいやつだったと、きっと俺はそんな風に思われていた。
鈍色の小学生時代。
俺は入学してからどの学年でも、クラスの中で居場所がなく、誰にも相手にされず友人も作れずにいた。
登校しても誰とも話すことなく、考えるのは早く下校して家に帰ることばかりだった。
俺の家には俺と母しかいなかった。
父親は俺が生まれて間もなく、別の女のところに行ってしまい、残された母は一人で俺のことを育てていた。
実家とは折り合いが悪く頼ることができず、窮乏を見かねた古くからの友人が小さな借家を世話してくれて、パートなど日中働き必死で家計を支えていた。
借家は最低限度の部屋、家具も家電もわずかしかなかったけれど、母との一緒の生活に不満を覚えたことはない。
それでも母は俺にいつも「ごめんね」とばかり言っていたように思う。
家の中に何もなくても、家から歩いて通える場所に公立図書館があり、そこの本を借りて読んでいた。
児童向けの本から背伸びして中高生向け、読めない漢字があっても気にせずに大人向けの本を読み漁るようになった。
同級生がテレビと漫画の話をしている中で、もとより混じれる筈がない。
そんな学校での話を母に知られたら悲しむだろうな、と思い話すことはなかったけれど、薄々感づいていたようにも思う。
小学三年生の時、晃一と同じクラスになった。
一・二年で繋がっていたクラスが、の三年生への進級でクラス替えを行ったけれど、それで自分の立ち位置が変わることもなく取り残された石塊のような日々は続いていた。
そのうち、ある授業の流れで児童同士でペアを作ることになり、当然のように俺は一人取り残された。
担任はもう一人、ペアから外れた児童の一人と組み合わせようとしたが、相手は露骨に嫌がり最後の一組みが決まらないでいた。
それを見ていた晃一は、自分が組んでいたペアを解いて俺に声をかけてきた。
俺と晃一がペアになり、空いた二人で組んで、その授業はそのまま済んだと思う。
その時、俺が感じていたのは屈辱で、担任やクラスの連中ではなく晃一の方にだった。
学校に通うようになってからずっと、馬鹿にされ嫌われていてもそれはたいして気にならなかったが、施されるかのような憐みの方に傷つけられたように感じたのだ。
だから俺は晃一のことを初めはむしろ嫌いだった。
晃一はそれ以降、常に俺に話しかけてくるようになり、鬱陶しいほどに孤立しているところから連れ出そうとするかのように構ってきた。
ひどく迷惑な話だったが、時間が立つうちに俺の内にも変化が起こってきた。
うるさく感じていた晃一からの干渉を、次第に待つようになっていった。
それまでは誰からも、まるでいないかのように扱われても慣れていたのに、登校して晃一とやりとりをするのが楽しみになってきた。
時折、奇妙な感覚を覚えることがあった。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い合せ、学校に居場所もなく級友ともはぐれているジョバンニを自分に見立てた時に、晃一はカンパネルラになるのではないか、と。
本当はクラスの誰とも友達になれるような少年なのに、爪弾きにされてるかのような俺に構ってくれる優しさについて考えた。
小学四年の夏休み。
俺と晃一は共に宿題をし遊び、陽盛りの日を駆け抜けた。
八月の終わり頃、だった。
二人で公営のプールですっかりと泳ぎ疲れ果て外に出た時だった。
「純夫の家、近くでしょう。遊びに行っていいかな」晃一が言った。
俺は口籠った、と思う。
「今日はまずいか?」晃一は続けて言った。
俺は少し怖かった、今まで誰も家に招いたことはない。
母と二人で生活している家は、他の人が見たら何と思うだろう。
普段は気にしていないが、皆は俺たちの「貧しい暮らし」のことをどう思うか……
でも、晃一は誰かを馬鹿にしたりとかしないだろう。
「……いいよ。でも何にもないよ」
「やった」
友達が俺の家に遊びに来る。
電話をすることもなく、直接歩いて古びた小さな平家まで来た。
ドアの鍵は開いており「ただいま」と声をかけて入ると、奥の居間から母が返事をしこちらを見た。
「友達、晃一くん」
「おじゃまします」晃一が言うと、母はいくらか慌てた。
「こんにちは。あらやだ、ちらかってるでしょう……」
「いいよ、別に……さ、入って」
母は戸惑い気味ながらにっこり笑って言った。
「いつも純夫と遊んでくれてありがとうね」
扇風機が首を振る居間の卓袱台に脇に座らせると少しばかり思案をして、
「純夫、じゃあ留守番しててくれる?ちょっと買い物をしてくるから」
そう言って家を出て行った。
網戸の向こう、濡れ縁の先の申し訳程度の庭越しにすぐ、隣の家がある。
薄手のカーテンを引くと、部屋の中がほんのりと水色に染まった。
「ほんとに何もないだろう」俺はきまりが悪くて言った。
「大丈夫……少し横になっても良い?」そう言うと晃一はそのまま仰向けになった。
俺も並ぶように横になると目蓋を閉じた。
さっきの水泳の疲れが身体に溜まっていた。
青いカーテンで水色に染まった部屋の中、俺は眠ってしまった。
夢で俺はヒトの姿のまま柔らかい薄青の水の中を漂っていた。
ほの明るい水面ははるか上にあり、下は闇に繋がる。
周りにも何もない。
疲れて重くなった手脚はどこまでも無力だった。
何も考えることなく流されて、けれどそれで良かった。
夢で俺は水死人なのか、水中なのに息苦しくないのが不思議だった。
そんなことを思った途端に、突然首に何かが絡まった。
首の周りが締まり、息が出来ない。
夢の世界が途切れた。
俺は首を締められている。
これは夢なのか、現実なのか。
俺の首を締める手にゆっくり力がこもる。
眼を開けられない。
眼を開けた向こうにあるものを見てしまったら、全てが壊れてしまう。
誰だ、晃一か?
晃一が……俺の首を締めているのか。
どうして?
眼を見開きその手を振り払うべきだったろうか。
でも俺はそうしなかった。
そのまま死ぬのも良いかも、と思った。
目蓋を閉じたまま、俺は悲しいような期待するような不思議な感情があったような気がする。
……手の力が緩んだ。
暫く眠った振りのまま気配が消えるのを待った。
気配は隣に移った。
眼を開けるタイミングもなく再びまどろんでいると、玄関の方でドアが開けられた。
入って近づいて来る足音、「寝ちゃってるの」という母の声がした。
眼を開けて半身を起こすと、母は卓袱台の上に買ってきたカップのアイスを置いた。
同じように起き上がっている晃一と眼が合った。
この眠りの間に距離が開いてしまったかのような、そんな眼をしていた。
三人でソーダ・フレーバーの青いアイスを食べた後、晃一は言葉少なく挨拶をして帰宅した。
その日が夏の終わりだったかのように、新学期が始まると晃一はもう俺と話すことは無くなり、そうして別の級友らと過ごすようになり、俺はまた一人になった。
母はその日以来、友達を二度と家に招かなくなった俺のことを気にしていたようだった。
もともと俺が友達の少ないことを、どこかで自分が親として十分ではないからなどというような引け目を感じている節があったのだけど、その日以降から折に触れ「ごめんね」と口癖のように俺に謝まるようになった。
俺は母の悲しむような様子がいたたまれず、そんなことはないと言うのだけれど、沈んだ顔ばかりしていた。
俺は高校を卒業し働くようになったが、十分な親孝行をする前に、ある年に母は体調を崩しあっけなく旅立ってしまった。
俺は本当の一人ぼっちになったわけだ。
晃一は何で俺を殺そうとしたのだろう、それをずっと考えても分からず、今でもまだ考えている。
晃一は俺よりも普通の級友らとの日常を選んだのだろうか。
俺といることで、学校での立場がやはり微妙なことになっていたのだろうか。
いつからか、俺のことが邪魔になっていたのだろうか。
だから魔が差したように、睡る無防備な俺を見て縊り殺してみようかと思ったのではないか。
何の準備も計画もなく、ほとんど夢のように俺の首に手をかけたのだとすれば。
それならばそれで良い。
もともと一人だった俺にとっては、元に戻るだけのこと。
俺はこれまでも、これからも一人のままだ。
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