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2晃一
階段を降りてホームに降りたと時に、じっと僕を見る眼があった。
沢山の顔の中、こちらを迷わずに見る一組のまなざしを見て、古く懐かしい顔をそこに見た。
昔の面影の残る面差し純夫が、そこにいた。
僕は何を言えば良かったのだろう。
時が過ぎて、僕はまだ君を友達と思っているけれど、君は僕を憎み嫌っていることを知っているから。
でも眼を逸らしてしまう。
小学生の頃、三年のクラス替えで純夫と同じ組になった。
その頃、自分は学校に行き、同級生の中にあっていつも違和感を感じていた。
彼らと話を合わせることができるけれど、自分にとってはそれほど魅力のないものばかりだった。
ただ一人になりたくないからと、皆に合わせて本当は興味のない話題に興じたりするのだけど、そういうのに疲れていたんだと思う。
そんな子供たちの中で、純夫は一人でいながら少しもそれを気に病むことなく、一日中、誰とも話をしないでも平気なように過ごしていた。
クラスの中で、仲間外れとは違う、誰もが話しかけづらい空気を纏っていたのが純夫だった。
休み時間、学校の図書室で一人読書に没頭する純夫を見かけ、彼と友人になってみたいと思うようになっていた。
ある授業で二人組を作る時だったと思う。
純夫と対になるはずだった男子が難色を示して組み合わせが決まり損ねていたのをチャンスに、自分から申し出て純夫と組になった。
図書室で純夫の読んでいた本を後追いで読んでみて、それとなく話題にすると、彼は意外なくらい滑らかに喋り始めた。
もともと話すことが嫌いというわけでもなく、そういう話のできる相手がたまたまいなかった、というだけなんだろう。
多分、ほとんどの同級生にとってはつまらない話題なのかもしれないが、僕には何よりも興味深く楽しい時間だった。
純夫には、父親がおらず母親と二人暮らしだというのは友人になってから大分後に聞かされた。
小学四年の夏休みだった。
二人で図書館で勉強し宿題を早々に終わらせ、空いた時間は二人で街のあちこちに遊びに行った。
そして夏休みの終わり頃、二人で市営のプールで泳ぎすっかりヘトヘトになりながら施設を出たところで、思い切って純夫の家に遊びに行ってもいいか、と訊いた。
純夫が瞬間固まったのを見て、失敗をしてしまったのかな、と思った。
それまで純夫を僕の家に招いたこともあったけれども、自分から彼の家にお邪魔したいとは言いづらく、夏休みの最後の思い出の一つに、と思い切った。
「……いいよ。でも何にもないよ」
いきなりだったので面食らったのか、それでも了解してくれて嬉しかった。
一緒に歩き少し寂しげな場所にある、同じ形の家がまとまっている場所に着いた。小さな家の並ぶ中を歩き、一軒の家の前に立ち純夫はドアを開いた。
ただいまと言う純夫に返事をして彼の母親がおかえり、と言った。
小さいが清潔にさっぱりとした住まいで、上がるとすぐにキッチンと居間が繋がっていた。
突然の来訪に驚きながら、彼の母親は嬉しそうに迎えてくれ、「ちょっと買い物に行って来るから、留守番しててね」と言いすぐに外出をした。
網戸になっている南向きの窓に青いカーテンを引くと、室内が薄青くなった。
「何もないだろ」自嘲的に純夫が言ったけれども別に気にならなかった。
ふと二人で遊べるゲームなどが無いことを気にしてるのかなと思い当たり「大丈夫」と応じた。
それでも間が持たないこともありどうしようか、と思ったけれど、泳いできた疲れが身体に満ちてきて横になっても良いか、とたずねた。
行儀が悪いが、寝転ぶと本当の眠気が訪れ、僕はそのまま眠ってしまった。
夢で僕はプールの中に頭を沈めていた。
プールには無数のクラスメイトがいるようなのだけど、誰も実体が無く性別もわからない子供らの影ばかりが水中に行き交っている。
水の中を潜りながらプールの底に落ちている幾つもの文房具や教科書とノート、小学生の身近な持ち物を拾って回収しなければと手を伸ばすけれども、どれもが手に取れない。
焦るうちに急に首回りが苦しくなった。
息苦しくなり、夢から覚めた。
僕の首が手で締められているのが分かった。
眼を開けないでされるがままでいた。
純夫が僕の首を絞めているのだ、と直感した。
彼は怒っているのだ、と。
母親と二人、静かに生活をしていたこの家に無神経に押しかけた僕に。
言葉少ない、不機嫌さはそのシグナルだったのかもしれない。
心臓の鼓動が早まった。
手が離れたようだ。
本気で殺す気はなかったのだろう。
ただ、怒りは本物だったのかもしれない。
起きたことに気づかれないように、そのまま眠ってるふりをし続けた。
暫くすると玄関のドアが開き足音が近づいてきた。
帰ってきた彼の母親が皆で食べるアイスを取り出して卓袱台の上に置いて……
純夫と眼が合い、それが不思議なほど平静なのが不思議だった。
開いていた心を閉ざされてしまった、と思った。
出されたアイスをご馳走になって早々、挨拶をして彼の家を出た。
彼はこの家や生活を見られたくなかったのかもしれない。
僕は自分の浅はかさを悔やんだ。
新学期が訪れ、彼に話しかけようと何度も試みたけれども、彼から憎まれ軽蔑されているのかと思うと勇気が出ず、学年が変わるクラス替えで別の組になり、とうとう純夫とは二度と話すことはなかった。
両親が健在で、住まいも恵まれている、それを当たり前のことと平然としていたような僕のことを、彼は軽蔑していたのだろうか。
そんな態度をした覚えもないけれど、それでもどこかで彼の気持ちを傷つけてしまったのかもしれない。
僕の首を絞めようとした彼の手のことを思い出す。
後年、読んでいたエッセイの中で引かれていた葛原妙子の短歌が頭に残った。
少年は少年と眠る薄青き水仙の葉のごとくならびて
『原牛』(1959)
あの夏の終わりの純夫と僕の並んで眠る姿がゆらめきあがる。
イメージの中で二人は乾いた水死人のように横たわる。
……でも僕が純夫に縊り殺されたのなら、純夫は誰の手にかかったのだろう?
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