つけがまわる

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俺が目を覚ますと時計は11時を示していた。 机の上に雑に積み上げられたプリントの1枚を手に取り、内容に目を通した。 昨日の晩、実際には今日の早朝、眠気で意識が朦朧としていた中で読んだ内容が間違いでなかったことを確認した。 夏休み終盤、俺は手付かずだった大量の課題に追われていた。 そうして夜となく昼となく課題を進めていたある時、改めて提出物の一覧を確認すると、後回しにしていた副教科の課題の殆どが提出が任意であることがわかった。 それによって8月31日午前11時現在、やらなければいけない課題は美術のデッサンを残すところとなった。 デッサンの対象は自由。そのことが余計に俺を困らせた。 線を1本引いて「シャー芯」なんてことが許されるのであれば迷わずそうするが、そんなことが許されるはずがない。根拠は常識だ。 展示されて見せ物にされるだけなら別に構わないが、呼び出されて注意を受けてさらに書き直しまでさせられては目も当てられない。 果物や食器類を描けば無難ではあるだろうが、楽して評価を得ることを考えると「自由」というテーマも軽視できない。 そういった考えでいいアイデアが思いつくまで保留にした結果がこれだ。 そして未だいいアイデアは浮かんでいない。 ふー、とため息が漏れた。 ここまで課題を後回しにして、これまで何をやっていただろうか。 何もしていない。それが答えだ。 後回しにするならするで開き直れば良かったものを、そうするでもなく課題を進めなければという思いに駆られながらうだうだしていた。 せめて何か一つでも満足できることをしていたらと思う。 しかし、本当に何もしていない。それが事実だ。 年配者曰く若者には無限の可能性があるらしい。であるならば悔いない人生を送るためにじっくりと将来について考えたいものだが、実際は経過する時間に比例して可能性は狭まっていく。人並みに悩めば人並みの可能性しか残らないという訳だ。別に人並みの人生に不満はないが、無限の可能性はどこにいったんだ、とは思う。 そしてこれは進学や職業選択に限った話ではない。 自分が自由に選択できることはどんどん限られてゆく。 かけがえのない思い出を作れた、何かに脇目も振らず打ち込めた、そんな限りある大きな自由を無駄にした。 相対的に見ても絶対的に見ても何の希望もない。 絶望的だ。 「死にたい」 そんな言葉が口を突いて出た。 そこし考える。それも悪くない気がしてきた。 俺は財布を持って家を出た。 外に出ると夏の終わりというには随分と暑さが残留しているように思えた。 ホームセンターは冷房が効いていて涼しかった。 資材売り場で見つけた白いロープを買ってまた外に出た。 暑い。 公園に行ったが、何人かの小さい子供と保護者がいたから場所を移すことにした。 子供達の甲高い笑い声が耳に響いた。 しばらく歩くと住宅街に人気のない寂れた神社を見つけた。 枝葉が伸び放題になっていて道路から境内が見えにくくなっていた。 落ちているのか置かれているのかよくわからない岩に乗って木に縄を縛って首に縄をかけた。 あとは岩から飛び降りるだけ。 思っていたより随分あっけない気がした。 本当にこのまま死んでもいいのだろうかという思いが芽生え始めた。 生きることを放棄して自分で死を選んだのに、その割には手段が雑だ。 これでいいのだろうか。もっと趣向を凝らすべきか、あるいは人の迷惑をもっと考えるべきか。 「まぁ、いいか」 いいアイデアが思いついた時に死ねば。 別に今日死ななければいけないわけじゃない。 家に帰り改めて自分の行動を振り返ると何とも恐ろしいことをしていたなと思った。 モチーフと紙を交互に見て、鉛筆を動かしながら考える。 今回俺が自殺をしようとできたのはきっと自分は自殺なんてしないと思っていたからだ。 自分が自殺を選択しうる人間だと知ってしまった今、俺はもう自殺できないだろう。 もしするとしたら、それは本当にどうしようもなくなった時だろうか。 そんなことを考えてうんざりしながら雑に丸めたロープを紙に描いた。
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