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 私はキッチンへ向い、地下室へ通じる上げ蓋の扉を開いた。幅の狭い階段を降りると、正面に金属製のドアがある。  居間のタブレットでコテージの間取りを調べた際、目についた部屋、緊急用パニックルームの入口だ。  ドアにノブは無い。  外から開けられない仕組みらしく、私は拳を固めて思いきり叩いた。 「おい、開けろ! 中にいるんだろ、わかってンだぞ」  声の限りに叫んでみる。ドアの内側に義弟がいるなら、聞こえない筈は無い。 「タブレットに残したお前のメッセージ、あれは全部嘘っぱちだよな? お前は最初からここに潜んでいた。私と妻の様子をずっと監視していたんだ」  ドアの向こうから答は無い。 「一階で争う奴らは何だ? お前が外部とこの家を隔離しようとしたのは、人を凶暴化する……例えば、狂犬病の様な病が流行っているせいじゃないのか?」  疑問は止めどなく、ドアを叩く拳の皮膚が破れて、血が床へ滴った。耳の傷からの血も止まらない。  その痛みに加え、段々と胸の底から得体のしれない悪寒が込み上げてくる。怒りとストレスが積み重なり、意識が徐々に乱れていくのを感じる。  これはまさか……  私も狂いつつあるのか、あの若者達のように。  気持ちを静めるべく深呼吸をし、ドアから離れた。その時、部屋の隅に四角いテーブルがあり、シートが被せてあるのに気づく。  早速シートを取り除くと、居間にあったのと同じ型のタブレット、それに違う日付の新聞が三部、重ねられていた。  上に載った新聞のトップニュースの見出しが、私の目へ飛び込んでくる。 「大統領、狂乱!」  その記事の内容は米大統領選を控えた昨年10月、遊説中の大統領が突如錯乱し、同伴する妻を惨殺したと言うものだ。  警備担当者から拳銃を奪って乱射する間、大統領は涙を流し、謝罪を繰り返した。そして最後の弾を己の眉間へ撃ち込み、自殺したのだと言う。  遺体を調べた結果、毒物、幻覚剤の類は検出されず、既知のウィルスに侵された痕跡も無かった。    次の新聞の日付は1月で、突然の狂乱発作が各地で頻発する事態を伝えるものだ。  常に患者の号泣を伴う事から「泣き熱」と呼ばれる病は、経路不明の感染を驚異的速度で拡大させ、世界の累計患者数が10億人を超えても尚、病原が特定されない。    地球温暖化で融けた永久表土から20ナノメートル以下の検出困難な新型ウィルスが発生、との説が当初有力視された。    VIPが初期の患者だった事もあり、某国軍事研究機関の生物兵器、と言う類の噂も絶えない。    大国間でお決まりの非難合戦へ発展したが、そもそもウィルスが原因であるのか否かさえ不明な有様である。    被害は全ての国を平等に襲い、荒れ狂った。    有効なワクチンを開発した国が世界のイニシアティブを握るとの見方から、大国は開発に総力を挙げたが、悉く壁へぶち当たる。    何せ、病理学者が解明に取り組み始めると、何故か彼らから真っ先に発症してしまうのだ。    危険な研究に取り組む恐怖はそれ自体、発症スイッチになり得るのでは?    出口の見えない不安が蔓延、根拠のない風評がネットに溢れた。驕り高ぶる人類への天罰、と強弁する宗教絡みのアジテーションまで飛び交う始末。    辛うじて強い精神的衝撃が引き金になる点のみ立証され、病原性ではなく心因性、即ち極端な形で発生した一種の集団ヒステリーではないかという説も唱えられ始める。    レミング等、一部の齧歯類が増え過ぎると自ら海へ向い、群れごと溺死する事で種の間引きを行う様に、人のDNAに内在する未知の要素が繁栄の頂点で活性化、自滅へ至るスイッチが入ったと言うのだ。  私は半ば呆然と記事を読み、最後の新聞を手に取った。  一枚の見開きで、号外より中身は薄い。中央の大きな写真は、私と妻、それにあの若者達がもっていた薬剤カプセルのクローズアップだった。    新聞によると、発症を妨げうる唯一の薬がこのカプセルに籠められている。  元来、安楽死が合法の国で開発されたドラッグらしい。  様々な痛み、ストレスを短期記憶ごと消し去る作用を持つ為、「泣き熱」にも有効な反面、服用ごとに脳細胞へ大きなダメージを与えてしまう。文末にはその最も有効な使い方を生き残った各国リーダーが話し合い、決めた、と書かれていた。   「有効な使い方? 安楽死の薬で?」  薄暗く、狭い地下室に独り言が響き、予期しない答えが返って来る。 「義兄さん、あんたにとっての有効な使い方なら判るだろ。今すぐ薬を飲め。そして姉さんの所へ戻らず、もう一度、ここで眠ってほしい」  声はテーブル上のタブレットから聞こえてきた。  パニックルーム内部にいる義弟がメッセージ画面に現れた所を見ると、無線で映像と声を飛ばしたらしい。   「今日の12時までで良い。それで全てが終わる」 「12時に何があるんだ?」 「知らない方が良い」  いつもの軽薄さと裏腹に、義弟の言葉は苦渋に満ちていた。 「あんた自身が昨夜、その薬を飲む間際に僕へ頼んだんだよ。目覚めたら何も知らせないでくれ、その方が幸せだって」  私は困惑し、耳から滴る血の雫の音を空しく聞き続けた。
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