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こんなことになるなんて。
好きな人、ううん、誰よりも好きだった人にこんな顔をさせることになるなんて。私は本当に最低だ。でも、私なりに考えた結論だった。
「いや、愛菜。いきなり過ぎてちょっと意味わかんないんだけど。俺、何かした? それとも、何かあった?」
私の発した言葉に、戸惑いと悲しみの混じった声で雅人は言った。
「雅人は悪くない。何もしてない。全部私が悪いの。雅人はいつだって優しかったし、本当に自慢のカレシだった」
私は雅人の歪んだ顔から目を逸らさないようにして、言い切った。そう。雅人は何も悪くない。私はかつて全力で好きだった雅人の悲しみ、怒り、全ての感情を受け止めなければならないと思った。全て私が悪いのだから。
何が違ったんだろう。
思えばあの人の言いようのない悲しみを帯びた顔を見た時から、何かが狂い出していたのかもしれない。その証拠に、雅人の傷ついた顔を目にしているというのに、私はあの人の海の底に沈んだような顔の方を思い出してしまうのだから。
「あのさ、雅人は私のことどのくらい好き? 心の中は私だけ?」
雅人はよく分からないというような顔をした。
「当たり前だろ。百パーセント愛菜だけだよ。今更何言ってんるんだ? もしかして俺が浮気してるとでも?」
言い終えて、はっと雅人は顔色を変えた。
「愛菜。もしかして愛菜の方が違う、のか?」
私は重く頷いた。
「私、告白された時、雅人だけが好きだったよ。でも今はそうじゃない。違う人が入ってきて、今では半々ぐらいになってる。ごめん」
重苦しい空気の中、私と雅人の間にある小さな四角いテーブル上で、麦茶の氷がカランと小さく音を立てた。それに気付いてか、雅人がおもむろにコップを手に取って麦茶をふた口飲んだ。
「でも、さあ。半々ならまた俺に向く可能性はないの?」
雅人は苦しげな顔に無理矢理笑顔を浮かべてそう言った。雅人のこんな顔を見るのは辛い。それでも私の気持ちは変わらなかった。私は首を横に振った。
「そういう問題じゃないんだ。こんな中途半端な気持ちで雅人と付き合うのは雅人に失礼だと思うし、そんな自分を許せないんだ。雅人は平気なの? 相手の心が半分でも」
雅人の顔が泣き笑いに歪む。
「俺、愛菜のためだったら何でもするよ。でも、愛菜の心は俺にはどうしようもないもんな。それでも、半分でもいいからって思うのは情けないかな」
雅人の目に涙が溜まっているのを見た。
ああ。雅人にここまで言わせてしまう自分が憎い。
私は一度目を固く閉じた。
この雅人の顔を覚えていないと。私の罪をしっかり胸に刻まないと。
「ごめん。本当にごめん、雅人」
私はテーブルに額がつくほど頭を下げた。雅人は何も答えず、泣くのを堪えるように肩を震わせていた。
「私、帰るね。雅人の部屋にいる資格なんてないもん。本当にごめん。私のこと、許さないで。憎んでいいから」
私は立ち上がって雅人の部屋から出ようとした。その私の腕を雅人が掴んだ。そして強引に私を引き寄せ、キスをした。私は驚いて雅人を振り払おうとするけれど、雅人はますます私を抱く手に力を込めた。
いつも雅人がするキスではなかった。まるで貪るような。雅人の舌が私の口を強引にこじ開け、入ってくる。
雅人。私の知らない人みたいだ。でもこんな時でさえ頭をちらつくのは。
半々なんて嘘かもしれない。もっとあの人の方が心を占めているのかもしれない。
私は泣きそうになってもがいた。雅人が嫌なわけじゃない。今でも雅人のことも好きなのだ。でも、やっぱりこんな心じゃだめだと思う。こんな酷い自分を知らない。こんな汚らわしい自分は嫌だ。私はそんな自分から逃れるようにもがいた。雅人の胸をどんどんと叩く。
雅人はかすかに唇を離した。雅人は涙のまくがはった瞳で私を見つめ、
「俺のことだけ考えてくれよ。お願いだよ。俺は愛菜が好きなんだ。別れたくないよ!」
懇願するように言ってまた私の唇を塞いだ。
熱い。雅人の唇が、舌が熱い。雅人の舌が段々と下がり、首筋を舐めた。私は初めて感じる感覚にびくんと身体を震わせた。雅人の指が私の胸に這わされる。
「あっ」
思わず声が漏れた。私の頭の中には雅人とそしてあの人が交互に出てきて、どちらにされているのか分からなくなってくる。
「気持ちいい? 俺、愛菜を大事にしたいと思ってた。だからキスまでにしてた。でも、こうすることで愛菜の心に、身体に俺を刻めるなら、早くにこうすればよかった」
雅人のあまりにも悲しげな声に、私は我に返った。
雅人。私の大切な人に変わりない。そんな彼をここまで追い込んだのは私なんだ。
私は覚悟を決めた。
「雅人」
私のブラウスのボタンを外していた雅人の手が止まった。私を見つめてくる雅人の目は追い詰められた、傷ついた獣のようだった。
私はそんな雅人の頬に手を伸ばした。
「雅人。分かった。いいよ。私、雅人の心に深い傷をつけたんだもん。雅人の気がすむなら、私を傷つけていいよ。私の初めて、もらってくれてもいい。私も雅人とならできると思う。ただ、気持ちがそれで変わるかは分からないけど」
今の私にできることはそれしかないと思った。私は自ら服を脱ぎ出した。
「愛菜」
雅人の声には色んな感情が混じっていて、私には雅人が何のために私を呼んだのか分からなかった。私はブラウスを脱いだ。そして、スカートに手をかけた。そのとき、雅人の手が私の手首を掴んだ。
「ごめん、愛菜。もう、いい。もういいよ。俺が浅はかだった。こんなことしても愛菜の心はもう戻らないんだな。だったら虚しいだけだ」
私は優しくベッドの上に座らされた。そしてブラウスを羽織らされる。呆然としている私の代わりに、雅人は私のブラウスのボタンをとめていった。
「分かった。もう分かったから。愛菜が言ったように、別れよう、俺たち」
雅人の言葉に私の目から涙が落ちた。自分が望んだ結末。それでも、雅人を傷つけたこと、雅人と別れること、どうしようもなく最低な自分が悲しかった。情けなかった。
「だめだよ。自分を安売りしたら。俺が悪かった。セックスはそんな交換条件みたいにするもんじゃないよな。ほんと、俺、カッコ悪いな。愛菜を追い詰めて」
私を優しく抱きしめ、ぽんぽんと私の後頭部を叩く雅人はいつもの雅人だった。
「違うよ、雅人! 私が雅人を先に傷つけて、追い詰めたんだよ! 私が悪いんだよ!」
私は叫ぶように言った。目からは次々と涙が溢れる。
こんなに雅人はいい奴なのに。なんで私の心は変わってしまったの?
「本当、私、最低最悪だよ!」
「愛菜。もういいんだ。相手の心まで縛ることはできないんだから。そんなに自分を責めないで」
私を落ち着かせるように雅人は一定のリズムで私の頭を叩き続けた。私はますます涙が止まらなかった。
「俺、愛菜のそばで愛菜の悩み聞いてやりたいけど、でもそれはできそうにないや。流石に心がきつい。俺のことはもう友だちとも思わないでくれ。ごめん」
私は大きくかぶりを振った。そんなの当たり前だ。自分から手を離したのだ。私はもう雅人に甘えることはできない。それでも寂しいと思う自分がいた。
「でも、最後に愛菜の心の半分が誰だか聞いてもいい? ああ。大丈夫。そいつを殴るなんてことはしないから。ただ、誰なんだろうって」
雅人は澄んだ目で私を見つめた。受け入れようと覚悟した目だった。
「それは」
私はその名を口にするのを躊躇った。
「それはね」
全然雅人とはタイプの違う、私の好みともかけ離れてるあの人の顔を思い浮かべて、私はやはり謎だとしか思えなかった。なぜあの人が心の中に入ってきたんだろう。断じてこんな結末を望んだわけではなかったのに。
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