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「あ、いらっしゃいませー」
もう慣れっこの律がお構いなしに声を掛けると、宮原はひなたの手を引っ張り、店の奥へと引っ込んだ。
「こちらにどうぞ。ご旅行のご相談ですか?」
「え? あ、ええ。このパンフレットのグルメ旅行なんですけど」
女性がカウンター席に腰かけたその時、奥の部屋から粘着質な水音が響いた。……キスしてやがる。
「あ、はい! こちらですね! ええと、いつ頃をご予定ですか!」
極力音を消すために大声を張り上げる律に、女性客の目が泳ぐ。
「あ……ええと……」
止まらない水音に、女性は赤い顔をして立ち上がった。
「……また来ます……」
「あっ」
そそくさと出て行く女性客を見送った律は、怒りもあらわに奥の部屋に飛び込んだ。
「ちょっと! お客さん帰っちゃったじゃないですか! っ、」
なぜ、ひなたのズボンが脱げかけているんだ。
「やだ! りっちゃんのエッチ!」
慌ててズボンを直すひなたを背中に隠して、宮原がドスのきいた声を出す。
「てめぇ、見てんじゃねぇ」
「っ、見てませんっ。見てませんからっ」
慌ててフロアに戻る律に、今まで気配を消していた睦美の興奮した視線が刺さった。
「……お茶を淹れましょう」
眼鏡をくいっと直した彼女が、すくりと立ち上がる。
「えっ! いや、今奥には行かない方が、」
思わず進路を塞ぐ律の肩越しに、睦美がぐいぐいと奥を覗き込む。
「お茶を」
「木嶋さん、お、落ち着いて」
何で眼鏡が曇ってんだ、怖いよ。
「あ、お茶淹れてくれるの? むっちゃん、僕アイスココアがいい!」
身なりを整えたひなたが、にこにこと奥から出てくると、ケロッと飲み物を頼んだ。続いて出て来た宮原は、じろりと律を睨む。
「あ、あの、何も見てませんから」
仕事はできる宮原だが、ことひなたが絡むと、めんどくさい。
「さくちゃん、りっちゃんを許してあげて。わざとじゃないんだから」
「ひなたは優しいな」
途端に目を細めてひなたの頭を撫でる宮原に、律はそそくさとその場を離れた。もうほんと、めんどくさい。
5時になると、嬉しそうなひなたがにこにこと立ち上がった。
「じゃありっちゃん、お先! あとよろしくね。──あ、さくちゃんかっこいい」
いつの間に着替えたのか、一張羅のスーツを着込んだあからさまなホストが奥から出てきた。その腕にひなたを絡み付け、極上の笑みを浮かべる。
「木嶋さんも、あとよろしくね」
「はい……」
磨きのかかったキラースマイルに、睦美の意識が飛んでいった。
宮原とひなたは、養子縁組として籍を入れて5年目だ。とっくに新婚と呼べる期間は過ぎているが、本当に仲がいい。
……世間には、こんなカップルもいるんだな。
仲良く店を後する2人は同伴出勤にしか見えないが、それでも羨ましいと思わずにはいられない律だった。
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