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多津乃湖サブレ本社工場
◇
「ようこそ、いらっしゃいませ! お待ちしておりました」
多津乃湖サブレの本社工場に到着すると、作業服を身に着けた40代半ばくらいの男性が、 にこにこと出迎えてくれた。
入口の歓迎看板には一際大きく、『歓迎、月島屋社員旅行御一行様』の文字が踊っている。一歩入ったフロアは白が基調で明るく清潔感があり、サブレの甘い香りが漂っていた。
「お疲れでしょう。まずはこちらでお茶をどうぞ」
フロアに併設されているオープンサロンでは、冷たいお茶の準備がされていた。女性スタッフに案内されて、皆が移動する。子供たちは母親に連れられてトイレに向かった。
律は、出迎えてくれた作業服の男性に歩み寄った。
「サクラトラベルの桃瀬です。この度はお世話になります」
「本社工場の坂倉です」
差し出された名刺には、『本社工場支配人』と記されてあった。
名刺交換をしていると、大介が母と兄を伴って来た。母である社長が挨拶をし、大介が手土産として店から持参して来た月島屋の羊羹を手渡した。
「ああ! これはどうも、ご丁寧にありがとうございます。いやあ、嬉しいですわ! うちの前会長からね、月島屋さんのお話はよく伺っていたもんで」
「え? うちをご存知なんですか?」
「勿論ですとも! うちの前会長は月島屋さんを創業なさった清さんと、若い頃同じ店で修行していたことがあるんですよ」
「え!」
「短い間だったそうですがね、千代さんのお話もよく伺っていました」
「ちょ、ちょっと、すみません」
慌てて千代を呼びに行こうとする社長を制した坂倉は、その視線の先に年配の女性を見つけて歩み寄る。
サロンのソファーに腰掛けてさおりたちとお茶を飲んでいた千代は、こちらに来る男性に気付き、顔を向けた。
坂倉は千代の側まで来ると丁寧に頭を下げ、感慨深そうに目を細めた。
「貴女が千代さんですか、ご健勝で何よりです。噂通りに、上品でおきれいな方だ」
坂倉が、うんうんと頷く。 そして、
「うちの前会長は、松下辰吉と言います。……分かりますか?」
坂倉の問いかけに千代は少し首を傾げ、ああ、と顔を上げた。
「主人の、昔馴染みの……」
「良かった! 覚えてていただけたなんて。写真が1枚だけあるんですよ」
そう言うと、胸ポケットから大切そうに古い写真を取り出し、千代の前のテーブルに置いた。
「こちらの、この方……」
セピア色の薄い写真は、どこかの店の前で撮られた集合写真だ。年代を感じる立派な店構えをバックに、主人であろう人物を真ん中にして従業員たちが20人程写っている。
坂倉が指差したその中の1人を、千代が覗き込んだ。
「ああ……主人だ」
「ええー、どれどれ?」
さおりが一緒になって、ずけずけと覗き込む。
「うそっ、めっちゃ男前なんだけど!」
「ははっ。うちの前会長も負けてないですよ。こっちの、これです」
「ほんとだ。かっこいい」
「ありがとうございます、私の祖父です」
どうやら孫に当たるらしい坂倉が、胸を張ってにこにこと笑った。
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