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「お母さん、知ってるの?」
社長が、母である千代に尋ねる。
「うーん……毎年お年賀状をいただいてたから、お名前は覚えてたんだけど。お会いしたことは、なかったような……」
「そうでしょう。祖父が一方的に千代さんのことを知っていたんだと思いますよ」
坂倉は、もうとっくに時効なので、と前置きをした。
「千代さんは、祖父の初恋の相手なんです」
坂倉の祖父であり多津乃湖サブレのメーカー元である松下製菓前会長の辰吉は、10代の頃、地元で老舗の和菓子屋に修行に出されたことがあった。
洋菓子を扱う松下製菓の息子が何故和菓子屋に修行に行ったかというと、この地域には他に洋菓子を扱う店がなかったから、とは表向きの理由だ。
当時若干の問題児だった辰吉を、両親は正直持て余していた。家業である洋菓子の修行というよりは精神的な鍛錬が必要だと痛感していたものの、親の目が届かない県外に出すなどは論外だった。
結果、山裾にある住職が厳しいことで有名な禅寺に修行に入るか、これまた主人が厳しいと評判の地元の和菓子屋に修行に入るかどちらかを選べと言われた辰吉が、泣く泣く和菓子屋を選んだというのはオフレコの話だった。
「そこで清さんに会ったそうです」
2つ年上の清は、寡黙で真面目な男だった。主人の厳しい指導や、時には先輩職人の苛めのような指導にも、文句を言わずに従った。
初めはくさることの多かった辰吉だが、仕事に真摯に向き合う清に徐々に感化されてゆく。年下の自分にも偉ぶることなく接してくれる清は、店の中で唯一本音が言える相手だった。自然と話す機会も増え、共に過ごす時間は楽しく、2人は親しくなっていった。
そんなある日、店に千代がやって来たそうだ。
「それはそれは、美しいお嬢さんだったそうですよ」
母親の用向きの供をしていた千代は、店先の縁台で少しの間休んでいた。
それを遠目に見た辰吉は、一目で恋に落ちたそうだ。
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