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「やだっ、会長、すごいじゃん!」
さおりが興奮して叫ぶ。
「何言ってるの、いいように言ってくれてるだけですよ」
千代がたしなめると、坂倉は首を振った。
「いえいえ、本当のことです」
千代は、数回店に訪れた。
いつも遠くから眺めるだけで言葉など交わしはしなかったが、辰吉は恋心を募らせた。それだけに、見合いの話が清にいった時は衝撃を受け、ひどく落ち込んだそうだ。
「祖父は想いを告げるまでもなく、失恋しました」
坂倉はそう言うと、ははは、と笑った。
それでも、辰吉は清を恨みはしなかった。その頃には清の人となりを認め、敬愛の念を抱くようになっていた辰吉は、自身を省みて思った。……自分は遠く、清に及ばない。
「多津乃湖サブレを作ったのは、祖父なんです」
辰吉は、清を手本に、奮起する。
実家に戻った辰吉は、家業の製菓店を盛り上げるべく粉骨邁進したそうだ。そして彼が生み出した多津乃湖サブレは、地元の土産物として定着した。
「ですので、うちと月島屋さんとは、浅からぬご縁があるんですよ」
「……知らなかったわ」
大介の母である社長が、感慨深く呟いた。
松下製菓の前会長は月島屋の先代と同じ年に亡くなっており、そこで年賀状のやり取りも途絶えたそうだ。
坂倉が、古い写真を大切そうに胸ポケットにしまった。
「お話しできて、良かったです。祖父も喜んでいることでしょう」
さおりがうっとりと、胸の前で手を合わせた。
「会長、もてたんだあ」
「昔のことですよ、お爺様もきっと、大袈裟に話してただけでしょう」
まだどこか懐疑的な千代に、坂倉は、にっこりと笑った。
「──私の母の名前は、『千代』って言うんです」
「え、まさか……」
「はい。初恋の人の名前を娘につけたってバレた時は、かなり揉めたらしいですよ」
「本物じゃん!」
さおりが叫ぶと、とうとう千代も、『あらまあ』と笑った。
坂倉が、さて、と腰を上げる。
「お時間をお取りしましたね。当社の歴史を紹介しましたところで、次は工場をご案内しましょう」
気付くと、坂倉と会長の周りを取り囲むようにして、皆が話に聞き入っていた。
そして坂倉が立ち上がると、自然と拍手が起こったのだった。
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