多津乃湖サブレ本社工場

4/7

76人が本棚に入れています
本棚に追加
/112ページ
          ◇  支配人自ら案内に立ち、多津乃湖サブレの製造過程を紹介する。  会長の思わぬ昔の恋話は皆の興味を引いたようで、その後の工場見学も熱心に案内を聞いていた。3号店の旦那などは、問題児が奮起して一旗揚げる話に感じるところがあったのか、先頭に立ってメモを取りながら坂倉の説明を聞いている。  そんな月島屋の人たちの最後尾に、律はついていた。  全面ガラスの向こうでは、銀色の巨大な寸胴鍋の中で、粉類がゆっくりと撹拌されていた。  失恋を機に奮起したという辰吉は、どんな思いでこの多津乃湖サブレを作ったのだろう?  律は失恋したあの頃、気持ちのやり場を求めるように、城探求に情熱を注いだ。その結果、今の仕事に繋がっていることを思えば、律もあの失恋が契機と言えるのかもしれない。  ……でも、辰吉のように、潔かった訳ではない。  元彼には女々しく追いすがったし、新しい彼氏とやらを、心底恨んだ。しばらくは大学にも行けず、毎日毎朝、目が覚めるたびにドロドロとした感情が渦巻いて喉元の塊が取れなくて苦しくて悲しくて堪らなかった。  寸胴鍋の中で捏ねられる生地が、大きな塊になってゆく。 「出来上がった生地は、冷蔵庫でひと晩寝かせます。そうすることで、生地も落ち着いて美味しくなる決心がつきます」 「あはは」  冗談を交えながらの説明に、皆楽しそうだ。  二度と恋愛はしないと誓ったあの日から、律は誰も好きにならなかった。その事実は、やっぱり別れた元彼が唯一無二の存在だったのだと、自分で自分を追いつめているようだった。  大きなローラーで伸ばされた生地は、折り畳まれて再度伸ばされる。 「この行程で、フレーバー生地を挟むこともできます。やっぱりチョコと抹茶が人気ですね。納豆味は不評でした」 「攻めすぎでしょ!」  突っ込むさおりに、坂倉が笑う。 「うちは社長の方針で、リクエストがきたものは一度は試すんですよ。でもあの時は、機械にも匂いが移ってあとが大変でした」  松下製菓の現社長は、柔軟性のある革新的な人物らしい。聞くと、30年以上松下製菓で勤め上げた生え抜きの社長で、親族ではないそうだ。
/112ページ

最初のコメントを投稿しよう!

76人が本棚に入れています
本棚に追加