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「前会長の辰吉が自由人でしたからね。親族に家業を継ぐことを強制はしませんでしたし、社長職にしても、やりたい奴がやればいいっていうスタンスなんです。もちろん見極めは必要ですがね、会社を潰す訳にはいきませんので」
初恋が実らなかった辰吉は、その後、当時にしては珍しく恋愛結婚をしたらしい。子供も5人もうけたが、家業以外の職に就いている者の方が多いそうだ。
「伸ばされた生地は、こちらで型抜きをします」
板状に広がった生地が、大きな機械にプレスされてきれいな楕円形のサブレ型になって流れてくる。等間隔に並んだクリーム色のサブレのピースは、ゆっくりと巨大なオーブンに吸い込まれていった。
恋愛などしなくても、人生は豊かにできる。
律のその考えは、今でも変わっていない。変わってはいないけれど──人生における幸せのピースを1つ、どこかに置き忘れて探さずにいるような、埋められない心の隙間があることは感じ始めていた。
「オーブンの温度や焼き時間は、季節によって変わります。気温や湿度に合わせて微調整をして、最良の状態に焼き上げています」
こんがりと焼けたサブレに龍のキャラクターの焼き印が入ると、律も馴染みのある多津乃湖サブレの完成だ。
「いい匂い! サブレ食べたーい。ねっ、食べたいよね?」
「うんっ」
甘く漂う香りに鼻をくんくんさせたさおりが、子供を巻き込んで訴える。
坂倉は頷いてスタッフに合図を送ると、皆を振り返った。
「ええ、皆様には出来たての多津乃湖サブレを召し上がっていただきます。まだ温かいので、ケーキみたいな食感ですよ」
「やった!」
初めに案内されたオープンサロンに戻ると、改めてお茶の用意がされてあった。そこに、出来たての多津乃湖サブレが運ばれる。
「美味しい!」
製造工程を1つずつ確認したあとに食べる多津乃湖サブレは、格別だった。
ほんのりと温かくサックリとした生地からは、バターと小麦粉の香りがしっかりと感じられる。
「やだこれ、美味しいー」
さっきのそば処で人の天ぷらまでもらって食ってたさおりが、パクパク食べる。サブレは別腹なんだな、さおり。
支配人の坂倉が、にこにこと笑った。
「美味しそうに食べてもらえるのが一番嬉しいですよ。こちらは夏季限定のアイスサンドで、8月一杯で終了しているんですが、特別に」
「っ、美味しい!」
アイスクリームを挟んだ限定商品まで頬張ったさおりは、半分に割った片方を元彼に差し出し、ご満悦だ。
その視界にはもう、近くにいる大介の姿も入っていないようだった。
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