其の四 深夜にしか食べられないモーニングを出す喫茶店

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其の四 深夜にしか食べられないモーニングを出す喫茶店

 温かくなってきたとはいえ流石に月も出ていない暗闇が支配する春先の路地は、風が冷たい。それでも私は小さな提灯を手に、歩き慣れた細い路地を歩いていた。京都の街にはこういった小さな路地が血管の静脈のように張り巡らされている。中には毛細血管のような本当に狭い、人間がすれ違うことすら難しいほどの裏路地もあり、散歩の途中でふらりと入ってみると掘り出し物の店が見つかったりするから、やはり散歩というのは辞められない。  その店もやはり、そんな狭い脇の裏路地の奥で、ぼんやりと明かりを灯していた。  私はそろりそろりと草履(ぞうり)の音をさせながら歩いていく。随分(ずいぶん)と新しい店だ。古い町家を改築でもしたのだろう。軒先に下げられた暖簾(のれん)には『亡忍具有〼』と書かれている。漢字だと一体何のことだかと思ったが、そのまま読めば「モーニング」だ。つまりは朝食のセットがあると言っている。  しかし今は月も見えない真の夜。それでも(かたく)なにモーニングを出すというのだろうか。流石に気になり、私はその木戸を開けた。 「いらっしゃいませ」  中は三十ほどの席があったが既に満席だ。私は気の好さそうな若い男性の店主にカウンター席に案内され、そこで「モーニングを」と口にした。 「はい、モーニングですね。かしこまりました」  かしこまられてしまった。やはり暖簾を出しているだけあって深夜だろうとあくまで「モーニング」と言い張るつもりらしい。  改めて店内の客を見ると年齢は二十代から六十代、いや七十代くらいだろうか。結構幅広く、男女の割合もほぼ半分といったところだ。子ども連れはいないものの、どの客もまるで宴会場のように賑やかに楽しんでいる。だがそのテーブルに並んでいるモーニングのプレートを見て、やや奇異に感じた。ご飯用のお椀が一つ、汁物用の漆塗(うるしぬ)りの物が一つ、それにメインの魚や肉料理とサラダなんかが一緒に盛られていたであろう大皿が一つ、後は何か和物などの副菜用の小皿が二つ並んでいるのだが、そのどれもがまるで新品のように綺麗なのだ。ソースや汁の残りもないし、野菜などの滓も見当たらない。それによく見るとそれぞれのコップには水すら入れられていなかった。  しかしそのコップを客の一人は笑いながら手に取り、中身があるかのように口に持っていって傾ける。喉がごくりごくりとうねったが、その頭髪の薄くなった男性は水分を取れているのだろうか。    私は怪訝(けげん)に感じ、カウンターの奥を見た。店主は忙しなくガスコンロの上の鍋やフライパンを手に取ったり、用意したプレートの上に小皿を載せたりしているが、やはりそこには何も載せられていない。それでも店主はジャーを開けてご飯を盛り付ける。いや、ご飯粒の一つだってそこにはないのだが、それでも盛り付け、プレートの上に置いてから、私の方へとそれを運んできた。 「お待たせしました。ご注文のモーニングです」  店主はにこやかに笑みを見せ、私の前にその空っぽの什器ばかりが載せられたプレートを置いた。 「すまないが、ここに載っているものは何だろうか」 「あれ? ご存知ない? (さわら)西京漬(さいきょうづ)けです。西京味噌に酒、味醂それに砂糖なんかを加えた漬け床に魚を漬けておいて、それを焼いたものです。普通の焼き魚とは違って西京味噌の甘い風味が魚の味を引き立てるんですよ。どちらかといえばあっさりした白身魚を漬けて焼くことが多いですが、お肉を漬けたものも結構いけますよ。モーニングには出さないんですけどね」 「いや、西京漬けは私もよく食べる。ただ、今ここには何も載っていないだろう?」  その一言を口に出した瞬間に、店内のざわつきが止んだ。見るとどの客も私を凝視している。先程まであれほど楽しそうにしていた人間たちの姿はどこにもない。 「お前、はじめてか?」  眉を寄せた皺深い顔で私にそう言ったのは六十代くらいに見える男性だ。つい十秒前まで一番大きな声を出して笑っていたのではなかったか。 「この店は初めてだ。いや、こんな風に空の器を出されたのは初めてですよ」  皮肉を載せて返してやったが、その返答には男だけでなく、他の客も可哀想なものを見る目で私を黙って見る。 「あの、お客さん」 「深夜にモーニングというのもどんな冗談か知らないが、この店はあんたも客も私をからかっているのか?」 「いえ。まだ、お気づきになられていないようで」 「気づく? 一体何にだ?」  と、入口の木戸が開けられた。入ってきたのは頭をすっぽりと覆う籠を被った、いわゆる虚無僧(こむそう)という奴だ。散歩をしていると時折すれ違うこともあるが、見る度にその異様さに目をむいてしまう。  その僧が手にした小さな笛を吹くと、店内に旋風(つむじかぜ)が起こり、私は思わず目を閉じた。 「何なんだ」  憤りの声を漏らした私だが、次に目を開いた時には別の意味で同じ言葉を口にしなければならなかった。    ――何、なんだ。    そこは喫茶店ではなかった。朽ちた荒屋(あばらや)だ。天井は半分落ち、薄っすらと月明かりが差している。その明かりは虚無僧ただ一人を照らし、店内だった場所には客どころか店主すら姿がない。 「あんたの手、見てみなさい」  ――手?    言われて視線を自分の右手に落とすと、そこには肉のない、骨だけになった私の手が見えた。  刹那(せつな)、西京焼きの味噌の良い香りが漂い、私はあの店内へと舞い戻っていた。  手は骨ではない。しっかりと箸を握り、鰆の身を摘んでいる。それを口に入れると脂と共に甘い香りが広がった。  懐かしい。それはもう二度と食べられないと思ったあの西京焼きだった。 「泣くほどに美味しいですか?」 「ああ。もう味わえないと思っていたんだ……何故なら私は」  ――その先は口にしなくてもいいです。    店主は笑顔を見せると、コップに水を注いでくれた。ゆらゆらと揺れるその水面を覗き込むと、私の顔はもう映っていなかった。それでも分かる。今の私は笑っているだろうと。(了)
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