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其の壱 本だけが許された本屋
京都という街には一歩入ると驚くような狭い路地が伸びていることがある。
ここもそういった狭い脇路地だ。
古い和風の木造家屋が軒を連ね、その瓦屋根からは雨粒がぽたりぽたりと垂れていた。
足元はアスファルトではなく砂利が敷かれているだけだ。
そこを奥へ歩いていくと、唐突に本屋が現れる。くすんだガラスの嵌った引き戸の入口の左の柱に『本屋有〼』という筆文字が、薄くかすれてしまっているが木の看板に書かれているから、やはりここは本屋なのだろう。
すみません――そう言って戸を開け、薄暗い店内へと入っていく。
一歩足を踏み入れたところで古書特有の湿ったあの黴臭いのが鼻を突いたが、奥のカウンターに人の姿はなかった。当然挨拶の一つもない。気難しい店主が本や新聞を広げているようなこともない。人間が背合わせになって何とかすれ違える程度の隙間しか書架の間が開けられておらず、天井まで伸びたその棚にはぎっしりと漢字の多い背表紙が並び、こちらを見下ろしていた。まるで本の森にでも迷い込んだかのようだ。
タイトルはどれも知らないものばかりだった。出版社も同じで、特別な古書を集めている店なのかも知れない。
カウンターまでやってくると二冊の平積みされたタイトルのない本が置かれていて、その脇に呼び鈴を見つけたので奥に店主がいるのだろうと思い、軽く鳴らしてみる。けれどやはり声もしなければ、誰かがいるようにもない。
よく見ると後ろの壁には赤い字で『BOOK ONLY』とペンキのようなものでなぐり書きされている。何かの紙に書いたものが貼ってあるのではなく、壁に直に書かれているのだ。
京都という街には奇妙なものが集まっている、という噂が昔から絶えない。特にこういった人気のない、誰がいつ足を踏み入れるのかよく分からないような場所というのは、時空が歪んでいてもおかしくはない。
一瞬寒気を覚えたので、そろそろ出ようかと振り返ると、入口に背の酷く曲がった老人が一人、立ってこちらを見ていた。あまりにも大きな目で、それが瞬きすらせずにじっと凝視しているものだから、うすら気味悪くなり、そそくさと足早に立ち去ろうとした。
しかし足が動かない。いや、よく見ると足がなかった。
視界がゆらぎ、ぼやけ、それは暗闇へと変化していく。
足音が近づいてきた。
「全く、仕方ないねえ」
その嗄れ声の主は床に落ちた一冊の本を拾い上げると、そっと本棚へと戻した。
ここは京都の裏路地にある、小さな本屋。本以外、何もない。ただの本屋である。
(了)
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