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 翌日の土曜日。  一晩ビジネスホテルで過ごした沙耶香は、午後三時過ぎに自宅に戻った。 「おかえり。楽しかった?」 「うん……」  ひきつった笑顔で答える。 「それはよかった」  それだけいうと陽一は、慌ただしそうにキッチンに入っていった。  なにやら甘い匂いが漂ってくる。 「なんか焼いてるの? いい匂い」  キッチンを覗くと、ダイニングテーブルに生花のブーケが飾ってあった。  顔を寄せ、瑞々しいほのかな香りを吸い込む。 「このお花、陽一さんが飾ったの?」 「そうだよ。記念日だしね。ケーキ焼いてるからお楽しみに」 「えっ? 記念日って……結婚十周年はお祝いしたじゃない」 「結婚じゃなくて、交際記念日」  あっ、と沙耶香。 「ここ何年か、結婚記念日といっしょにしてたけど、ほら、沙耶香ここんとこ元気なかったから、サプライズで」 「え……わたし元気なかった?」 「うーん、なんか上の空ってゆーか、ときどきぼうっとしてた」 「……ごめん……」 「謝ることないよ。僕が原因だったら言ってね。ちゃんとするから」  陽一のしゅんとした目を見た瞬間、沙耶香は罪悪感に飲み込まれた。  悪いのは私なのに。  沙耶香は顔をしかめてぼろぼろと泣きだした。  びっくりしたように陽一が歩みより、沙耶香の両肩に手を添える。 「ごめん、なんか変なこといった?」  沙耶香は陽一の丸い身体に両手を回すと、胸に顔を埋めてゆっくりと横にふった。 「このお花もさ、おぼえてる? 僕が初めて告白したときプレゼントした花」 「……うん……うれしかった……」 「僕はあのときからずっと、今も沙耶香が好きだよ」  沙耶香は気づいた。  陽一は出会ったときからずっと、やさしくてあたたかい。それがあたりまえすぎて、空気のように見えなくなっていた。  平穏な日々を退屈な時間だと勘違いして外に刺激を求めた私はバカだ。  いくら身体の相性がよくても、心が通わなければ虚しいだけだ。 「沙耶香」  陽一の思いのほか明るい声に、沙耶香が顔を上げる。 「沙耶香、僕は来年は、三人でお祝いしたいって思ってるんだ。どうかな……」  沙耶香は驚いて一瞬まばたきをすると、陽一の胸に顔をうずめて、ちいさくうなずいた。  こんなかけがえのないひとが、そばにいてくれる。  もう、ドライフラワ―はいらなかった。 ー おしまい ー
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