1/1
28人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

気付くと、私は公園のベンチで眠っていた。 あたりを見渡すと、人はいない。 小さな鳩が地面をつつくその音だけが、やけに鳴り響いていた。 彼のことを思いだす。 数時間前の出来事のはずの、あの夜は現実だったのだろうか。 私が遠い昔得意だった妄想がまた酷くなり、幻覚を見ただけなのかもしれない、という考えがふと頭をよぎる。 いや、そんなことはないはず。 私はこの目で、この心で、彼を知った。 月明かりに照らされる、あの彼の横顔。薄く揺れる毛先。 鮮明に思い出されるあの光景。 月がどうしようもなく、輝いていた。 記憶が零れないようにと、焦点をあわせて姿勢を正す。 人より倍は遅いであろう、私の胸に宿ったこの感情。 起き上がるのが遅かったため、その反動か、心は激しく揺れていた。 何もかもが初めてで、動揺の一言では形容しきれない。 意識をするたび何かが思い起こされていくようで、胸の内が高揚しきっていた。 彼は何という名前なのだろう。 私は彼のこと、何も知らない。 知っているのは、あの優しい声色と、横顔と。 そして、世界中の悲しみを受け取ったような心。 全てを悟ったように、言の葉をゆっくりと編む彼。 寂しさが美しく彼の周りを纏い、艶やかにそれを放っていた。 明日もこの場所に来れば、彼に会えるだろうか。 初めての感情と初めての淡い希望を抱き、私はベンチを立った。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!