*序

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*序

 世界のどこかにある干支国(かんしこく)の西の谷間に、黄金色の美しい髪に碧い瞳をもつ人々の村がある。  彼らは陽寿族(ようじゅぞく)という、国民の過半数が何らかの精霊の血が混じっているこの国においては珍しい純血種の人間の部族だ。  精霊はこの国においてすべての根源となる存在と言われており、最も数も種類も多い。  太古にこの国を治めていた王族が氷の精霊と炎の精霊であった影響なのか、氷や炎をはじめ、光や治癒、風など様々な精霊を祖先に持つ者が多いとも言われている。  精霊の血をひいていれば何らかの魔術を扱うことができるとされているのだが、純血種の人間にはその恩恵がないため全体的に数が少ないと考えられている。  そんな精霊の血をひく者と、そうでない純血種の人間が混在するのが干支国なのだ。  その純血種の人間の陽寿族の村は、かつて大干ばつに悩まされたこともある村で、いまはその乾燥しやすい土地柄を活かして月桂樹が多く栽培され、実から作られる油・月桂油(げっけいゆ)の生産が盛んだ。  村の精油所では秋ごろに収穫された黒々と完熟した実を洗って潰したり、木の樽に移して良く揉む作業が行われたりしている。  そうして油分と分離された月桂樹の実は縦長の筒に入れられ、一晩から一日、あたたかい場所に置かれる。 「そうすると……ほら、ザング様、金色の汁が浮いてきているの、お分かりになります? 搾りたてはそのまま食することもできます。いかがですか?」  黄金色の髪に碧眼の若い娘が、搾りたての月桂油を木の匙に掬い取り、ザング、と呼ばれた紺碧色の長髪の男に差し出す。  男は匙を受け取ってひと口それを味わうと、「ほう、思ったよりも甘みがある」と、呟く。  男の呟きに娘は嬉しそうに微笑み、「この村の実は熟れると特別甘くなるようなんです」と、言葉を付け足す。 「まるで果実の様な風味だとも言われることもありまして、健康のためにそのまま召し上がる方も多いんですよ」 「なるほど。だいたいどれぐらい獲れるものなんですか、サチナ」 「そうですね……ようやく、年間で四十斗弱ほど油が獲れるようになりました。まだまだですね」  月桂樹は一本の木に三貫弱(約十キロ)ほどの実がなるが、その内の七厘(七%)程度しか油が搾り取れない。  そのため生産品として量産するためには少なくとも一千本以上は栽培しなくてはならず、村の特産品として売り出すためには並々ならぬ苦労があった。  サチナの家は代々この村を治める長の家で、彼女の兄は若くしてその座につき、彼女はその一環として特産品の月桂油の生産管理、そして販売も任されている。  まだ十八になったばかりの彼女であるが、十五の歳から月桂油の生産に深く関わってきている。  それは、一見大人しい娘のように見える彼女であるが、とても知恵者で度胸もあると評判なためだ。 「初めの頃は質の悪い商人に質が悪いから弁償しろと言われたりだの、安く買いたたかれようとしたりだのしていたとグドから聞いていましたが、その後どうですか?」  ザングが味見の匙を渡しながら問うと、サチナは苦笑して、「まあ、どうにかこうにか」と、答える。  サチナがまだ年若い娘――しかも初期は少女とも言える年頃であったため――であるため、月桂油の取引の際に彼女を見くびって接してくる輩が後を絶たないのだ。  その点を村長であり、サチナの兄であるグドや家族らが心配して取引を祐筆役に交代させようとしているのだが、彼女はそれに応じる気はない。  たとえ品質でケチをつけられても、品質証明のために相手を村の畑や精油所に招いて見学させたり、証明書を添付したりして対応しているという。  一度など品質証明の札がないなどという言い掛かりもあったが、祐筆役の得意とする占いを活用して見つけ出したこともあった。相手が紛失したのを隠していたのだ。  サチナはその際相手を責めることはせず、誠心誠意込めて作った月桂油を無下にしないでくれと頭を下げたのだ。その誠実な姿と態度がたちまちに評判になったというが、それもまたサチナの策であった。頭ごなしに感情的に対立するのではなく、こちらは誠実に応じることが結果としてよいことを知っているのだ。  そう言ったことの積み重ねのおかげか、理不尽な言い掛かりはかなり減ったようだとサチナは言う。 「それでもまあ、全くないわけではないんですが……」 「しかし、それでもあなたはご自分の知恵で策を練り、実践し、相手をきちんと説得できている。いくら品質の良いものを作っても、扱う者に知恵と度胸がなくては意味がないですから。あなたは商人としての才があるのでしょう。それは素晴らしいことです」  兄をはじめとする家族からは、危ないからサチナひとりで取引に行くことにいい顔をしてくれないのだが、サチナはそれが自分を半人前扱いされているようで不服であった。  たとえ理不尽な言い掛かりを彼女の知恵で解決していると言っても、周囲の者たちは危険だの一点張りで、未だに彼女を幼い少女の頃のよう扱っているようだとサチナ本人は感じている。  しかし、いま向き合っているザングという紫の眼の役人は、サチナよりいくつも歳が離れているからか、周囲とは違った印象を受けるのだ。加えて、彼女の言動を認めてくれるような言葉をかけてくれる。  そのことが、サチナが取引関係にないザングを、自分のとっておきの場所である精油所に招き、出来立ての月桂油を味見させたことに繋がっている。サチナなりのほのかな好意の表れなのだ。 「それもこれも、ザング様たちが“闇の月”で水枯れを治めて下さったお陰です。良い水かあるから、良い月桂油ができるのです」  かつて慢性的な水不足によりろくな作物が育たなかったこの村で、村民が飢えることなく暮らしていけるだけの米や野菜と、豊富な月桂樹の実が獲れるようになったのは、この国にかつて伝わっていた“闇の月”と呼ばれる秘宝で水源を得たことによる。 「いえ、私はただグドについて行っただけですから」  ザングはその秘宝を巡る旅でサチナの兄・グドらと知り合い、そこから続く縁で時折近隣に立ち寄った際に村も訪ねてくることがあるのだ。  日頃西のあちこちの町で役人として飛び回っているザングは、左目が鮮やかな紫色をしている。それはこの国に多い精霊の血をひく者の証しで、彼は氷と炎の精霊の血が流れていると言う。  深い夜空のような紺碧色の長い髪に紫の左眼は、丁寧な言葉遣いも相まって彼をひどく冷淡に思わせる。  グドの勧めとサチナの好意もあって、こうして最近軌道に乗り始めた精油所の案内をサチナがしているものの、あまり会話が弾む様子がない。 (――ただ油ができるところなんて、やっぱり退屈だったかしら……でも、もう少し会話してくださってもいいのに……)  先程までグドや、グドの右腕であるフリトという闇の精霊の血をひく祐筆役の青年とは昔話に花を咲かせて楽し気にしていたようなのに、精油所を見てまわっている今はにこりともしないからだ。  やはり自分が若輩者であるから、兄よりも年上の彼――たしか、三十七ほどだと聞いている――を満足させるような話題を持ち合わせていないのかもしれない……そう、今年十八になろうかというサチナは俯いてしまいそうになる。  先述の通り、普段から月桂油を卸に行く際も、サチナがまだ年若い娘であることから頭から相手にしてくれない頭の固い商売人もまだいなくはない。  しかし彼女は持ち前の人当たりの良さと賢さで理不尽な仕打ちにもめげず、じわじわと取引先を広げている最中だ。  だから、多少兄と旧知の仲のこの役人の態度が素っ気なくとも、深く気に病むつもりはなかった。  サチナはふとあることを思い立ち、ザングに声をかけた。 「そうだ、ザング様。月桂樹の畑をご覧になりますか?」 「月桂樹の、畑?」 「はい。ここから少し丘の方に行くんですけれど、いかがでしょう?」  サチナの誘いに、ザングは暫し腕組みをしてあごの下に手を宛がって考えこむ。  仕事のついでにふらりと立ち寄っただけで畑巡りをするつもりなどないと言われてしまうかもしれない……そう、サチナがちらりと考えていると、ザングは顔を上げてこちらを向いた。  そして先程までの素っ気なさなど感じさせない穏やかな笑みでこう答えた。 「行きましょう。案内してくれますか?」 「はい! こちらです」  サチナはザングの言葉にうなずき、月桂油特有の香りに満ちた精油所の小屋を後にした。
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