*9 剥き出しになった本音

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*9 剥き出しになった本音

 村からの使者が来るとゴウホウから知らされた日、サチナは自室でその時を待ち構えていた。  屋敷に連れてこられた時に身に着けていた袍や裙は見つけられなかったが、それに近い、動きやすい服装に身を包んで、いつ迎えに来られてもいいように部屋で待機していたのだ。  滞りなければ村からは昼頃に屋敷の到着し、話し合いなどが行われた後、早ければ今日中にも村からの使者――迎えに来た誰かと対面できると思っていたからだ。  しかし、部屋を訪れるのは部屋付きの従者や侍女ばかりで、その誰もサチナに迎えが来たと告げる気配もない。 「ねえ、ゴウホウ様から何かあたしのことで言伝を受けていない?」  午後も遅く、夕闇が辺りを包み始め侍女の一人が部屋に明かりを灯しにやってくる頃になっても、サチナに迎えの報せはなかった。  話し合いは今日この屋敷で行われている筈で、それはもういくらなんでもおおよその片はついている筈だろうとサチナは踏んでいた。長として、兄としてのグドの態度はサチナと寸分たがいないと信じているからだ。  それなのに……サチナは一抹の不安を覚え、部屋中に明かりをつけて回る若い侍女――たしか、ユイハと言ったか――に声をかけた。  ユイハは明かり用の油の入った柄の長い如雨露(じょうろ)を手に、しばし考えこんで首を振る。 「いいえ、なにも聞いておりません」 「じゃあ、お客人からの伝言とか、ない?」 「さあ……あたしらは旦那様のお客様のことはよくわからないので……」  ユイハの言うことはもっともだ。一介の従者が、主人の客人から伝言を受けるようなことなど考えにくい。もしあったとしても、主人であるゴウホウ経由で伝えられるだろう。  そのゴウホウは、今日は朝方に顔を出してきて以来サチナの許には訪れていない。村の使者と面会しているのだとしても、そろそろその内容をサチナに伝えに来てくれてもいい頃合いではないだろうか。  そういった話の一切がサチナの耳に届かない間は、ただただ己の身がどうなっていくのかが不安で仕方ない。  自然と溜め息が増えて俯き気味になってしまうサチナの様子を、ユイハは怪訝そうに見ている。 「お嬢様、なにかお飲み物をお持ちしましょうか? それとも、もう夕餉(ゆうげ)になさいます?」 「……じゃあ、あたたかいお茶をお願い」  かしこまりました、とユイハは一礼して部屋から下がり、サチナがひとり残される。  明かりを灯した部屋はぼんやりと明るくなっていたが、サチナの心は影が差したように暗い。  村からの使者は誰だったのだろうか。ゴウホウと月桂油の取引やサチナの身柄についての話合いはどのように行われ、どう転んだのだろうか。一切の報せがない状況は、サチナにとって不安しかない。  そう考えている内に、先ほどのユイハが茶器の道具を一揃い盆にのせて戻ってきた。 「お嬢様、運が良いですよ。こちらのお茶、先ほどゴウホウ様が東の街の商人から買い付けたばかりの新茶だそうですよ」 「……そう」 「ゴウホウ様、先ほどお客様とのお話が終えられたそうなので、もしかしたら夕餉の頃に来られるかもしれませんね」  客人との話が終わった、とユイハの言葉を耳にして、サチナは俯いていた顔を上げた。  向いた先のユイハはサチナの様子に構うことなく、慣れた手つきでお茶を用意しながら、先ほど屋敷の中で見かけたという客人の話をしている。  ちらりと見かけたその客人は、頭からつま先まで真っ黒な布を被っている、黒髪の男で、隙間から垣間見た目は柘榴石のように赤かったという。  黒づくめに柘榴石のように赤い眼――サチナはその姿をしたものを良く知っている。 「……フリト」 「どうか、されましたか?」 「ねえ、その黒い姿のお客様は、もう帰られたの?」 「ええ、先ほど入口の方へお見送りされているのを見かけしましたから。どうかなさいましたか?」 「……ううん、なんでもないわ」  赤い眼の彼は、間違いなくグドの右腕のフリトだろう。ということは、今日サチナの解放のために訪れたのは彼だったのだろう。  だけど、その彼がサチナを迎えに来たという知らせは一切ない。それどころか、彼はもうこの屋敷にいないというではないか。  自分の解放の交渉に出向いたであろう彼が、自分に会うことなく帰路についてしまった。これが意味することに、サチナは身体が床に沈んでしまうような錯覚を覚える絶望を抱いた。 (そんな……まさか……交渉が、決裂したというの? じゃあ、あたしはどうなるの?)  ただ自分の解放と月桂油の取引を引換にするだけの話ではなかっただろうか。  たとえ村は財政的な打撃を犠牲にしてでも、万一の事態ではサチナを救い出してくれる条件を吞むだろうと思っていたし、グドもそのような旨を明言していた憶えがサチナにもある。グドは、月桂油の利益とサチナであれば、後者を選ぶ、と。  なのに――この状況はどういうことだろうか? 「お嬢様? お茶、お口に合いませんでしたか?」  お茶を注がれた茶器を手にしたまま黙っているサチナを、ユイハが心配そうに覗ってくる。  サチナは慌てて首を横に振り、ユイハに礼を言ってお茶をひと口飲む。華やかな花の香りが鼻を抜けていくが、サチナの気分は全く晴れなかった。  いまはまだ憶測にすぎない、話合われた本当の内容はまだサチナには知らされていない。  だけど、この拭いきれない不安な想いは何だろうか。  ゆっくりと夜の闇に包まれていく部屋の中で、サチナは静かに花の香りのするお茶を飲むしかなかった。  侍女のユイハが言っていた通り、ゴウホウはサチナの夕餉が終わる頃に部屋を訪ねてきた。  料理を食べ終えて空になった食器を侍女たちが片付けているのを眺めながら、ゴウホウは卓を挟んでサチナを見つめている。その表情はいつも以上に上機嫌だ。  他の侍女に申し付けて軽い晩酌の用意をしてもらったゴウホウは、手酌でゆったりと盃を舐めている。 「随分とご機嫌ですね。御酒を召し上がるなんて」  自身の行方の不安から来る苛立ちを必死に抑えながらサチナが声をかけると、そんな彼女の胸中を知ってか知らずかゴウホウは鷹揚にうなずき、上機嫌の理由を話し始めた。 「なかなか骨の折れる交渉が上手くいきそうなんでね、その前祝いみたいなものかな」  骨の折れる交渉、という言葉に引掛りを覚えつつも、サチナは取り繕うようにやわらかく笑みを浮かべ、ゴウホウの晩酌に付き合うためのお茶を飲む。 「やり手のゴウホウ様の骨が折れるだなんて、相当なお品なんでしょうね」 「まあ、そうだね。俺はそれをどうしても手に入れたいから、どんな手立てだって使うつもりだよ」 「法に触れない程度に?」 「っはは、まあ、そうなるかな」  ゴウホウは軽く笑い、何杯目かになる盃をあおる。そして更ににこやかに笑む。  やり手のゴウホウが手段を選ばずに手にしようとしているもの。その正体を、サチナは既に知っている気がした。そしてそれは、先ほど感じた不安にも直結している、とも。  自分の不安に直結しているかもしれない、ゴウホウの求めるものを知るために、サチナは訊ねてみることにした。 「ゴウホウ様」 「なんだい?」 「ゴウホウ様がそうまでして手に入れたい物は、あたしも知っているものでしょうか?」  サチナの言葉にゴウホウはあごの下に手を宛がって考えこむ素振りをして、そしてそうだなぁ、と言いながら答え始める。  少々酒が回って酔っているのか、その表情はだらしなく緩んでも見える。 「そうだなぁ……サチナは、知っているけれど、本当には知らないかもしれない」 「あたしが、本当には知らない?」 「それには俺はどんな宝石や金銀財宝よりも価値があると思っているんだがね、向こうはそれに気付いていない」 「金銀財宝よりも価値がある、ですか?」 「ああ、もちろん。だから俺はどうしても手に入れたいし、そのためなら手段は選ばない」 「そう、ずっと仰いますね」 「それが商人としての(さが)でもあるからね」 「価値あるものは手に入れたい、というのがですか?」  まあそうなるね、とゴウホウは言い、新たに盃に酒を注ぐ。  ゆったりと味わうように盃を舐めるゴウホウを見つめながら、サチナは決定的となる言葉を口中で転がし、やがて呟くように吐き出した。 「――それは、あたし、ですか?」  サチナの言葉に、盃を持つゴウホウの手が止まる。上機嫌のように見える表情の目許は、いささか冷たく彼女を見据えているようだ。  ゴウホウは口元に宛がっていた盃の中身を飲み干し、薄く笑いうなずく。 「そう、だから……あの赤い眼の使いにはお帰り頂いた。彼は貴女を帰せという惣領様の話を持ってきたにすぎないからね」 「じゃあ今後は村とは取引はどうなるんです? あたしはここにいるままなんですよ?」 「月桂油の取引を続けるかどうかはわからない。向こうはそれを望んでいないようだからな」 「待ってください。最初のお話では、あたしを村に帰してくださる代わりに取引をもうやめる話だったはず。兄はそれを望んでいるからこそ使者をよこして――」 「言ったろう? 俺は、手に入れるためなら手段を選ばない、と」 「兄は、あたしの帰還を望んでいるんです!」 「しかし俺は貴女に商談を交わしているんだ。貴女の兄上と話をしているわけではない」 「じゃあ、いますぐあたしをここから村へ帰してください!! 今後一切あたしは貴方と取引をいたしません! これがあたしの望みです!」  不安が現実となって明らかになった。ゴウホウは端からサチナを村へ帰す気はなかったのだ。  たとえ交渉に村からの使いが来ようとも、サチナがこの屋敷に足を踏み入れた段階で彼の取る手段は決まっていたのだろう。  椅子から立ち上がり、部屋中に響き渡るような声を張り上げて自身の望むことを主張したサチナを、ゴウホウはもう先程までの上機嫌な顔で見つめていなかった。  その冷酷さを湛えた表情に、サチナは背筋に悪寒が走る。 「――いいだろう。それが貴女の望みであることはよくわかった」 「…………」 「ただし、それが叶えられることは万に一つでもあると思いあがらないことだ。俺は、欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばないのだからね」  それだけを言い置いて、ゴウホウは席を立ち、そのまま背を向けて部屋を出て行った。  サチナはその背中が暗がりに消えてしまうまで呆然と立ち尽くしていた。
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