*14 暗い井戸の向こうにあるはずの帰路と密約

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*14 暗い井戸の向こうにあるはずの帰路と密約

 サチナが幽閉されている部屋には、中庭を臨む腰高の玻璃の嵌められた窓と出入り口が一つあり、出入り口には簡単な閂の鍵がかけられている。  もちろん外廊下には見張りの従者が一人立っており、世話役の侍女とゴウホウだけが基本出入りする。  夜間もそれは変わりないのだが、丑三つ時の頃になると見張りが交代するのをサチナは知っていた。  交代の時に業務の引継ぎと部屋の外回りを見て回るのが慣例のようで、ほんの半刻ほどの間で入り口の辺りの人の気配が消える。  サチナはその時を寝台にじっと横になって待ち構えていた。  湯あみの後に寝台の下に予備の服――与えられている中でも一番質素なもの――と踵の低い靴を隠し、侍女らが部屋を去ってしばらくしてから身支度を整え再び寝台に潜り込んでじっと息を潜めた。 (――好機は交代の時だけ……さっき着替えた時に行李の布ははぎ取っておいたから、あとは音をたてないように蓋を開けて……)  時が過ぎていくのが一日千秋のように感じられ、サチナはただひたすらに部屋の外の気配が遠ざかるのをじりじりと焦がれながら待っていた。そして同じぐらい心臓が早打ちしてもいた。  呼吸するのもためらうほどに気を張っていると、やわらかな布団のぬくもりがサチナをゆったりと眠りに誘う。  瞬く感覚がじわじわと長くなってきて、目を瞑る時間が伸びていることに気づき、サチナは慌てて自らの頬を張った。  ここで呑気に寝てしまっては一生悔やむに悔やめなくなってしまう――その想いが彼女をまどろみから引き上げる。  そうこうしている内に、扉の向こう側から微かに話声が複数聞こえ始め、しばらくするとそれらは遠ざかって行った。  どうやら見張りが交代の時間を迎え、部屋の外周を見回りに行ったようだ。  サチナは素早く、しかし音を立てることなく寝台から飛び出して窓際の例の行李の許へ駆け寄り、一抱えほどある行李の蓋を開けて足許に置き、続けて井戸の上の覆いを押し開ける。  大きく口を開ける井戸が眼下に続き、昼間見た時よりも迫力のある暗い闇にサチナは一瞬足がすくみそうになる。微かに吹き上げて頬を撫でる湿った空気もまた彼女の恐怖心を煽ってくるようだ。  サチナはひとつ深く息を吸い、腰帯をほどいてきつく体に結び付ける。それから水汲み用の桶に片足を掛けて地に着いている方の足を蹴り上げて一気に重力に任せて穴の中に下りようとした、その瞬間だった。 「――お嬢様、こんな時間に何をなさっているんです?」 「……えっ?」 「いけませんよ、ここは火消し用の井戸なんですからね」  背後から突如聞こえた声が蹴り上げようとしたサチナの片足ごと抱き着いていて動けなくなっていた。  人の気配など全くしなかったのに――サチナが驚きと悔しさを込めて背後を見やると、就寝前に部屋を出たとばかり思っていたユイハがサチナを抱きとめていたのだ。  サチナが唖然としているのを宥めるようにユイハはサチナの片足を下げさせ、そして行李を元姿に戻した。  行李の中の井戸を下り、水路を辿って水源までたどり着けば外に出られるとサチナは考えていたのだ。  大人しい性分ではあるが、幼い頃は木登りなどもするほどの活発さもあったので、その要領で井戸を下りていけると踏んでいた。  しかしそれはあっさりと侍女に見つかってしまった。 (――ああ、もう駄目だわ……お終いなのね……)  きっと屋敷の主人であるゴウホウに今のことは伝えられ、いよいよサチナは幽閉ではなく監禁され、二度と村へは帰れないかもしれない。  自分の失敗を悔やむよりも絶望感が彼女を頭から呑み込んでいて、目の前が先程見おろした井戸の穴の中よりも暗く沈んでいく気がした。 「さ、お嬢様。お茶が入りましたよ」 「…………」 「あんな薄着でいて寒かったでしょう? あたたかいのをお召し上がりくださいな」  サチナがしていたことは、どう見ても誰が見てもこの部屋から抜け出そうとしていたことだ。  それなのに、ユイハは大声で騒ぎ立てて外の見張りの従者を呼ぶことも、ゴウホウを呼んで欲しいと声をあげることもそんな素振りも見せない。ただいつものように、サチナにお茶を淹れてくれる。  しかしサチナはそのお茶を飲むことも受け取ることもできなかった。ユイハがいつもと変わらない理由がわからないからだ。  そして何より、どうしていないと思っていた部屋の中に忍び込んでいたのかがわからなかった。 「なんでここにいたんだ? ってお顔ですね」 「……だって」 「お昼に井戸の話をしてから、お嬢様はちらちらあちらを盗み見されていましたから。他の者たちは呑気だから気付かなかったようですけれど、あたしは気付いてしまいました」  苦笑しながらサチナのうっかりさを指摘してくるユイハの言葉に、サチナは悔しさで唇を噛む。興味を示して自ら脱出すると露呈するような真似をしてしまってなんて愚かな、と。  だが、相変わらずユイハはゴウホウに報告する様子がない。やはり、いつもどおりの態度だ。  いつもどおりに接して油断させて、ゴウホウに密告するかもしれない……そうとしか考えられないサチナは、うかつに口を聞くことさえ拒んでいた。  石のように口をつぐんでいるサチナの様子に、ユイハは困ったように苦笑して溜め息をつき、そしてサチナの足許に膝をついてそっと彼女の手に自分のものを重ねてきた。そこには、紫水晶が煌めく指輪がはめられている。  サチナが何をされるのかと覗うような目でユイハを見やると、ユイハがやわらかく笑んでこう言った。 「お嬢様には、すでに心に大切な方がいらっしゃるんですね」 「え? どうして?」 「この街では紫水晶を身につけている娘には想い人がいると言われています。だから、ゴウホウ様も躍起になっていらっしゃるんでしょうね……その言い伝えを覆し、お嬢様を絶対に自分のものにしよう、と」  ユイハの言葉に、何故ゴウホウがあの取引の日に突然サチナを村へ帰さずこの屋敷に幽閉したのかがわかった。先日鉢合わせしたザングとの関係を早合点しているのだ。  人も物も意のままに扱ってきたこれまでのゴウホウにとって、頑なに自分になびかないサチナはよほど得難い宝物の様なのだろう。  サチナがゴウホウからの誘いや口説き文句、贈り物などを拒み続けてきた挙句に、村での鉢合わせに、想い人がいると窺わせる印を身に着けて現れたこと。それは、彼は下してはいけない決断をさせ、実行させしまったようだ。  いまはただ、幽閉されてゴウホウからの求愛を拒んでいられるかもしれない。しかしそれがいつまでも続くとは思えないし、より一層求愛という名の許の執心が加速するかわからない。  既に村からの使者であるフリトの訴えを退け、サチナの解放を拒んでいるのだから、悠長にただ囚われていられる場合ではないのかもしれない。  しかも、今宵サチナは脱走を図り、失敗したのだ。これが彼の耳に入ってしまったら……それこそ身に危険が及ぶ可能性が出てくるとも言える。  自身の置かれた状況の危うさに、サチナは背筋が凍るような思いがした。  一刻も早くここから逃げ出して村へ帰りたい。でも、どうすれば――サチナの心に焦りと不安がない交ぜになって渦を巻く。  そんな彼女の胸中を見透かすように、ユイハは更に言葉を続ける。さっきよりも真剣な面持ちで、小さな声で。 「井戸をおりて水路を辿っても、その先は大きな池です。底はぬかるみで、深い森になっていると聞きます。そんなところにずぶ濡れのお嬢様がひとりでいては危険ですし、すぐに見つかってしまいます。水路の先にも、この屋敷の使いの者がいるかもしれません」 「ユイハ……? なぜ、あなたはそんなことを、あたしに……」  伝えられる情報の内容に新たな驚きを隠せないサチナが問うように呟くと、ユイハは困ったように苦笑をして、重ねていた手をそっと強く握りしめてきた。 「あたしにも、紫水晶を身につけたい相手がいたんです。幼馴染でした。でも……その方はゴウホウ様の商売敵になってしまったので……あたしはもう会うことも許されません」 「そんな……」 「ですからね、お嬢様。どうか、村に無事にお帰りになって、その方とお幸せになってください。あの方に負けてはいけません」  紫水晶は、ザングが御守りにと貸してくれただけに過ぎなかったが、サチナは幽閉されてからずっと、毎晩のようにザングの名前を唱えながら眠りについていた。助けに来て欲しい、と。  そしてそれはいつしかザングがサチナを救い出しに現れる夢となって毎晩見るようになっていた程だ。  助けに来て欲しいなら、同じく(まじな)いをかけてくれたフリトの名を呼んでも良かったのかもしれない。何せ彼は闇の魔術を使うのだから。  しかしサチナが唱え続けたのは、涼やかな紫の眼の彼の名だった。  それは、彼が唯一彼女をお嬢様扱いせず、一人前の務めを担う者としての気概を信じてくれたからであり、必ず助けに行くと約束してくれたからだ。旧友の妹君だからというだけの理由にしては、手の込んだ(まじな)いを込めて。  ザングからの想いの大きさと熱さは、知らぬ間にサチナの心に溶け込み、この苦しい幽閉生活を支えていた。  手元に宿る彼からの想いは十二分にサチナに伝わり、彼女もまたそれに答えたいと無意識に考えるようになっていたのだ。  これを、想い人がいると言わずして何と言うのか。サチナは熱くなっていく頬を感じながらと滲む視界を瞬かせた。 「あたしは、お嬢様の――サチナ様の味方です。きっと、サチナ様をその方の待つ村へお返ししますからね」  ここに連れてこられてから初めて名前を呼んでもらえた嬉しさが、頬を伝っていく。  いまここで泣くわけにはいかない……でも、孤軍奮闘しなくていいのだと思えるだけでも、張りつめていた神経が少しだけホッと緩んでいくのを感じる。  誰も知らない密約を交わした二人の若い娘たちは、手を取り合って見つめ合っていた。
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