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*20 新たな取引の始まりとふたりのこれからと
夏が始まる頃、どうにかザングに連れられて村に帰還したサチナは、今回のゴウホウによる幽閉の仔細をグドに報告し、今後の取引のあり方を話し合った。
騒動の顛末としてゴウホウとの取引は今後一切行わないことが真っ先に決められたが、その分の穴埋めをどうやって埋めるかが課題だった。
「月桂油の取引の四割強がゴウホウとの取引だったんだよねぇ……これを早急に穴埋め、って言うのは一朝一夕でできるものじゃないよなぁ」
屋敷の居間でグドと祐筆役のフリト、そして月桂油の生産販売を担当しているサチナ、そして騒動の解決に大きく貢献してくれたザングがひざを突き合わせるように話合いしていた。
サチナの人命を最優先にしなくてはいけない事態であったとは言え、その代償はなかなかに大きいと言える。
今日明日で新しい、それも抜けてしまった四割強とも言える取引量を埋めるだけの強固な取引先が早々に見つかるなら、今回のような騒動など起きることはなかっただろう。
致し方なかった事態と、あらかじめ覚悟していた事態とは言え、その深刻さは計り知れない。
サチナは取引の担当者としての責任を痛感して、グドに何も発言できずにいた。
グドの伝手で月桂油の販路を広げるにも、四割強をすぐに埋められるほどの強固なつながりは期待できそうにない。
行き詰った話合いの沈黙は重く、溜め息すらつけない状況だ。
「――あの、私から、いいですか?」
沈黙がどれほど続いたかしれないが、重たい空気を破ったのはザングの言葉だった。
あぐらをかいた膝の上に頬杖をついて考え込んでいたグドが、自分の斜め前に座るザングの方を見ると、ザングが小さく手を挙げていた。
グドが発言を促すと、ザングはこう言葉を続ける。
「私の仕事――あちこちの街の戸籍を調べたり、租税のために市場を見て回ったりすること――の関係で、良質な油を欲している方が知り合いの中にいるかもしれません。ゴウホウほど大量に買ってくれるかはわかりませんが、心当たりはなくはありません」
「それは、一件や二件と言った具合でしょうか?」
ザングの申し出にサチナが確認するように問うと、ザングは顎の下に手を宛がって少し考えこみ、「……ざっと、十数件ほどはあったかと」と、答えた。
十数件……一件一件の取引量は少ないかもしれないが、塵も積もれば山となるというのか、合算すればゴウホウとの取引量に匹敵する可能性があることも考えられる。
それに、大きな取引量を一件の取引先に頼ってしまうと、今回のような不測の事態になった際に代替えがなくて詰んでしまいかねない。
「これは希望的観測にすぎませんが、もし、その取引が上手くいけば、口伝てに村の月桂油の評判が広がり、取引先が増えていく可能性もあります。ゴウホウの時に彼の店との取引を信用して取引していたものがいたように、口伝てでの評判を参考にする場合も考えられます」
「でもそれは、信用問題がまた取引先に影響することになりませんか?」
「信用する、しないは個人の主観が大きいので何とも言えませんが……しかし、店の威勢だけを信用する者よりも、実際に月桂油を取り扱っている者の意見を参考にする者はゴウホウの時よりも多いのではと思います。私に心当たりある方々はほとんどが実際に油を使用する職種の方々ですから」
「なるほど、それは月桂油の品質を見て、本当に信じて下さる方々であろう、とも言えますね」
「そう考えられるかと」
こうして、ザングの伝手で商店などの取引先を紹介してもらい、ゴウホウに代わる新たな取引先の獲得に乗り出すこととなった。
新たな取引先を初めて訪問する際は念のためにザングもサチナに付き添い、それにより相手がザングの顔を立ててサチナと以前よりも公正な取引をするよう確約することができた。
ザングは西の街の商店の多くで知られているようで、その彼の紹介とあれば信頼性が高いのか、二回目以降サチナのみで訪問しても取引の約束が覆されることはなく、その点を気にしていたグドは安堵しているようだ。
「ザング様のお陰で、我が村の月桂油の評判も上々の様です」
「いいえ、私はただ知り合いの店などを紹介したにすぎません。月桂油の品質の高さはサチナの努力の賜物ですよ」
月桂樹の実の収穫が始まる直前のある晩秋の午後、取引先への挨拶回りを終えて村へ戻ったふたりは、月桂樹畑を見おろせる小高い丘の上に腰かけていた。
役人お仕事の合間を縫ってサチナの取引の付き添いをしてくれていたザングであったが、その役割もそろそろ終わりに近づいている。
今季の月桂樹の実の収穫と製油が済んでからの取引は、サチナひとりで請け負うことになる。いまのところどの取引先もゴウホウのような者はおらず、平穏に取引は行われているようだ。
ザングの言葉に、サチナははにかみながら微笑んでうなずき、そしてふと寂しげな表情をしてザングを見つめる。
「ザング様は、もう、こちらにいらっしゃる機会が減ってしまうのですか?」
騒動が終結したあの日、ふたりは抱き合い口付けを交わしてまで想いを伝え合ったが、それきり特別な関係の進展は見られなかった。騒動の報告や新たな取引先を整えることなどで忙しく、甘い時間を過ごすいとまがなかったのだ。
サチナとしては想いを告げた相手であるザングを掛け替えなく思っているのだが、ザングの方はあれ以降以前のような素っ気なさに戻ってしまったようで、彼の真意がサチナにはわかりかねていた。
だから、直球的にもう逢う機会はないのだろうかと言葉をぶつけてみた次第だ。
「そうですねぇ……」と、当のザングはサチナの隣で考え込んでしまっている。
あの時自分を愛していると告げたのは幻だったのか……? そう、サチナは失望感と焦燥感が入り混じった想いでザングを見つめる。
「月桂油の取引もこのままでいけばきっと軌道にまた乗りますし、そうなればあなたも安泰でしょうね」
「ではやはり、もうお逢いできない、と?」
「それは……」
秋の深まりを感じる冷たい風がふたりの間を吹き抜けていく。サチナの問いかけに言葉を濁すザングに、サチナはまっすぐと目を向けて見つめ、こう告げた。
「あたしは、いやです」
「え……?」
「だって、ザング様はあたしを愛していると、あの時仰ったじゃないですか。あれは、偽りだったんですか?」
「そういうワケでは……ただ、」
「ただ?」
「その時にも告げたように、私は三十路過ぎの、一介の役人にすぎません。小さくとも村の長の一族であるあなたには――」
「ザング様、私はあなたと共に生きていきたいのです。村の長の一族としてではなく、あなたの伴侶として、あなたと共に歩んでいきたいんです。何故ならあたしはあなたを愛しているから」
「サチナ……」
「ザング様は、あたしを愛してくださるんでしょう? それが偽りでないなら、年齢も役職も関係ないはずじゃないですか? ザング様が、あたしが月桂油の取引に行くことの背中を押してくださったことと同じでしょう?」
「…………」
「答えてください、ザング様」
射貫くような眼差しで碧い眼がザングを見つめている。
自分の年齢の半分ほどの、少女から大人へと変わり始めた彼女の視線は、凝り固まりかけていたザングの考えを常に刺激し柔和にほぐしていく。それは驚きと発見に満ちたみずみずしい世界が目の前にあることを逢うたびに彼に示してくれた。
その世界の入り口に彼女と立つことを、彼は選び取ることにした。
ザングはそっとサチナの手を取り、あの時のようにそっと口づける。その手にはあの御守りの紫水晶が輝いていた。
「――私と生涯を共に歩んで下さい、サチナ。この畢生をかけてあなたを愛していくことを誓います」
「私もです、ザング様」
取り合った手をそっと握り合い、ふたりは距離を縮めていく。どちらからともなく重なった唇は、微かに甘い秋の花の匂いがした。
唇を重ねてからそっと離し、ほんの少しの間を取り見つめ合い、ふたりは小さく笑った。
「あんちゃにまた報告しなくちゃいけないわ」
「そうですね。あの過保護な兄上がお許し下さるでしょうかね」
くすくすと苦笑してザングが囁くと、サチナはその頬にもう一度口付けをし、耳元で囁き返した。
「そしたらあたしはまた屋敷から逃げ出すわ。今度は月桂油の樽に入って」
「ならば私はまた指輪を頼りにあなたを捜しましょう」
「必ず見つけ出しますからね」と、ザングは微笑み、そしてサチナを強く抱きしめて、「たとえあなたがどこにいようとも、きっと」と、言いながら。
サチナもまた彼の広い背中に腕をまわして抱きしめてうなずく。
やわらかな秋の陽射しが、ふたりを包み込むように照らす午後の誓いの口付けだった。
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