*2 要らぬお節介と水の滴る男の笑み

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*2 要らぬお節介と水の滴る男の笑み

「今日は南西の街まで行ってきてね、その帰り道に貴女の村があるのを思いだしたのでね」 「まあ、それはご苦労さまでございます。良いお話はありましたか?」 「ええ、お陰様でウチの街の野菜の塩漬けをたくさんお買い求めいただける話がまとまりそうだよ」 「ようございますね。おめでとうございます」 「ははは、商人として当然の話です」  ゴウホウは、ここに来るまでに行った取引の話などをしながら、時折ザングの方に視線を投げている。表情こそにこやかだが、多少彼に少なからぬ関心を抱いているのだろう。 「ザング殿と言いましたか。お役人様はなかなかゆとりある日々のようで羨ましいですな。我々のような小商いの許を視察されるほどのお時間があるとは」 「ええ、まあ、これも仕事の内ですね」  ゴウホウの皮肉とも取れる言葉に、ザングは意にも返さず、表情すら変えることなく応え、さらにこう言葉を返す。 「ゴウホウ殿ともあられる方でもお取引先の方と他愛ない話をされるんですねぇ……てっきりそう言った類のことは時間の無駄だと断じているのかと思いましたよ」 「懇意にしている取引先の許を訪ねることだって仕事の内だろう?」 ザングの言葉にゴウホウも負けじと応じるが、にこやかだが一触即発にもなりかねないぴりりとした空気が一瞬漂う。  その内に月桂樹畑のある丘のふもとの方から、ゴウホウの名を呼びながらかけてくるものが現れた。どうやらゴウホウを迎えに来た者のようだ。  駆け寄って来た者からそろそろ次の取引先へ向かわなくてはと告げられ、ゴウホウは困ったように苦笑し、肩をすくめる。 「どうやら楽しい時間も終わりのようだ」 「道中、お気をつけて」 「また会えるのを楽しみにしているよ、サチナ」  さり気なく手を取り、その甲に口付けせんばかりの接近具合に、サチナはわずかに表情を引きつらせる。  ゴウホウは気付いていないのか、にこやかに微笑んでサチナの手を離して従者と共に去って行った。  丘を下りながらゴウホウは何度もこちらを振り返り、いつまでも手を振っていた。  サチナはそれになんとか微笑んで答えていたが、姿が見えなくなると大きく溜め息をついて表情をわずかに曇らせる。 「どうかされましたか?」 「あ、いえ……」  嵐のように突如現れて一方的に話をするだけして去っていったゴウホウの余波にまとわりつかれるように立ち尽くしていたサチナは、ザングから声をかけられて我に返る。  曖昧に笑って先程の手紙を適当に畳んで服の袷に押し込み、「そろそろ屋敷に戻りましょうか」と、あえて明るくサチナは言った。  ザングの言葉を待たず、サチナはもと来た道を折り返して歩いて行く。ザングは、何か言いたげにサチナを見つめてくる。  まさか先程のゴウホウと親密な仲にあるだなんてザングに思われたわけではあるまいし……そう、考えながらサチナはそれを打ち消すように口を開く。 「もう少しあたたかくなったら、月桂樹の花が咲くんですよ。白くて小さな花なんです。一面が星を散りばめたようにきれいで。ぜひまた花の咲く頃においでくださ――」 「その時には、あなたは大きなお屋敷の御寮様かもしれませんね」 「……え?」  御寮様、とはこの地域では花嫁のことを指す。しかも、大きなお屋敷、などとザングは言って先程まで見せなかったような顔で微笑むのだ。  先程のゴウホウとのやり取りを、やはり親密な仲と勘違いされた。それも、婚姻を前提とした仲のように――そう察したサチナはカッと頭に血が上り、頬が熱くなるのを感じた。  勝手に親密だと思い込まれ、挙句自分とゴウホウが近い将来祝言を上げるような仲だと思われてもいる、それがサチナには腹立たしかったのだ。  サチナは兄妹の中でもかなり大人しい性格なのだが、頭に血が上ってしまうと―― 「少々私があの方と親し気にしたからってそんな安直な発言、殿方として見下げた振る舞いですよ!! しかも勝手に話まで進めて……」 「え? なんの話で――」 「問答無用!!」  それまでのおしとやかとも言える雰囲気からは想像できないほどの声を張り上げたかと思うと、サチナはつかつかとザングの許に大股で歩み寄り、そして力いっぱい彼を突き飛ばしたのだ。しかもその突き飛ばされた先にあったのは、月桂樹の実を洗うための水を溜めている大きな桶だった。  サチナは普段は大人しいのだが、頭に血が上ると極まれに力任せな行動をとってしまうことがある。  それがもたらす悪影響はサチナ自身にも自覚があるのか、ザングを突き飛ばした次の瞬間に我に返ったのだが、時は既に遅い。  大きなしぶきと音を立てて桶にザングは飛び込む形になり、長い髪もきちんと着ていた(ほう)も下衣も水の中だ。片方の(くつ)だけがはずみで脱げてどこかへ飛んでいった。 「ザング様?!」  自分でも思った以上に力強くザングを突き飛ばしてしまったのか、サチナはしぶきを上げて桶に落とされたザングの名を悲鳴じみた声で叫ぶ。  幸い、桶は長身のザングが溺れてしまうほどの深さはなかったようで、水を張った桶の中で尻もちをついて目を丸くしているばかりだった。  春告の鳥の鳴き声が遠くに聞こえるほどの沈黙が流れる。その間、二人は呆然と見つめ合っていた。 (――あたしったら、なんてことを……!)  いくら相手が愛想のない役人とは言え、兄の大切な旧友であり客人であることに変わりはない。  ザングが必ずしもサチナとゴウホウの仲を親密だと思い込んだ確証があるわけでもなく、むしろサチナの早合点の恐れの方が強い上に、ザングの先ほどの言葉には他意がなかったかもしれないのだ。それなのに――  サチナは血の気が引く思いがし、大慌てで沓もそのままにザングを引っ張り上げようと桶の中に足を突っ込もうと(くん)をまくり上げたのだ。 「サチナ様?! なにごとですか?!」  片足を桶に突っ込んだその時、屋敷の方から丸い体格の中年の女性が悲鳴のような声をあげてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。  彼女は長の屋敷の乳母やのウーマと言い、いまは主に屋敷の雑事を取り仕切っているのだが、乳母やの仕事を終えた今でも時折こうして騒動を起こす子ども達のもとにはせ参じる。  ウーマは水浸しになっているザングの姿を見てさらに驚愕し、なにが起きたのだとサチナに問いただす。  サチナはウーマの剣幕と勢いと、自らの突飛すぎる行動の果ての惨事に言葉が継げずしどろもどろになっていた。 「――っははは、いやぁ、参りましたね」  サチナがウーマに小言を並べ立てられているさなか、突如それまで呆然としていたザングが大口を開けて笑い出したのだ。  水の滴る長い髪をかき上げ、水滴の垂れる袍を絞りながらザングは立ち上がりつつもまだくすくすと笑っている。  ウーマはあまりの事態に、ザングが怒りを通り越して感情の一線を越えてしまったのかと慌てて声をかけたのだが、ザングはそうではないと言うように首を振る。 「ああ、申し訳ございません、ザング様」 「いえいえ、もとはと言えば私がサチナに失礼なことを言ってしまったようなのですから」 「でも、だからって……サチナ様、たとえザング様の言うとおりだったとしても、突き飛ばしてはいけませんよ!」 「ごめんなさい……あの、お怪我は……」  申し訳なさで消え入りそうな声でザングに訊ねるサチナに、ザングはこれまでに見せたことのないやわらかな笑みで、「大事ありません」と答えるにとどめた。  ウーマが急ぎ屋敷に向かって着替えなどの様に奔走する中、ザングは先程精油所を見ていた時よりもゆかいそうな顔をしている。  サチナが怪訝そうにその表情を窺っていると、ザングはくすりと笑ってこう言った。 「大人しいだけの娘さんでないとわかり、安心しました」 「え? どういうことです?」そう、サチナが立ち止まって問うと、ザングは水の滴る髪をかき上げながら苦笑する。 「人が好いだけでは商売はできませんからね。それだけです」  それだけ言い置くと、ザングは乾いた大きな布を何枚も抱えて戻ってきたウーマに促されながら屋敷のほうに歩いて行ってしまった。  サチナは片足だけ濡れた姿のまま、その場に立ち尽くして先程の言葉の意味を考えていた。 (人が好いだけでは商売はできない、って……あたしのこと、試したの?)  それは自分の身を心配してなのか、ただ単にからかってみただけなのか、サチナにはわからない。  後者であれば、ただただ腹立たしいだけなのだが、ザングの先程の言葉とそれを載せた声色、そしてそれをつむいだ口許の表情にそんな気配は感じられなかった気がする。  そこにどんな意味があるのか、サチナはやはりわからなかった。  わからなかったが――嫌な気持ちはしない、そんな不思議な感情を覚えるのだった。
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