悪しきもの喰い

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悪しきもの喰い

 時は元禄の頃、徳川綱吉の治世。  駿河国の山奥にある、小さな町の小さな寺に、ごんと呼ばれる少年が住んでいた。  いや、寺に住んでいたというのは少々語弊があるだろうか。なんせ10歳にも満たないごんは、やせぎすで、歳の割にはひょろりと背が高く、伸ばしっぱなしにしている黒髪は絡まりあって、まるで山姥のようであったので。軒下に現れるとまるで幽霊のように見えて、他の子どもたちはごんが寺に入るのを嫌がった。  なので仕方なく、ごんは寺の裏手にある納屋の隅で暮らしていたのだった。    ごんは何も持たない子どもだった。  生まれて直ぐに寺の前に捨て置かれたために、両親に関する思い出がない。名前をつけられることすらなかったので、周囲からは『名無しの権兵衛』からもじった蔑称で呼ばれている。  何より、彼は生まれつき両の目が殆んど見えていなかった。明暗が辛うじてわかる程度で、それ以外はまるで判別出来ないのだ。  もともと貧しい寺である。子どもたちは大人の手伝いをして毎日を暮らしていた。それで奉公先が見つかればよいのだが、現実はそんなに甘くはない。病や貧困が起因して、大人になるのを待たずに死ぬ者の方が多い。そういう場所だ。  見目が不気味で働く事もできない役立たずのごんは、子どもたちから疎まれており、ひどい苛めを受けていた。殴られたり、蹴られたり。ご飯を遠くに置かれたり。見えないのを良いことに虫を混ぜられたこともある。  けれども、ごんは、それら全てをどうでも良いと感じていた。  ごんは見た目よりも頑丈で、痛覚が驚くほどに鈍かった。痛みも、寒さも、その身を震わせるには至らず、虫入りの飯などに心を揺らされる事もない。  ごんにとって、自分はそこにあるだけのものだった。  尊くない。  大事にする理由もない。  無気力ながらにそれでも生きるのをやめないのは、死を恐れる動物的な本能のようなもののためだった。  どんなに苛めても悲鳴の1つもあげないごんは、子どもたちの目には異質に映っただろう。  やがて、誰も寄り付かなくなった納屋で、うとうととまどろんでいると、不意に寺の方から赤子の泣き声が聞こえてきた。  また、子どもが捨てられたのか。  ぼんやりとそんな風に思った。事実以外の感想は湧かない。同情や憐憫などという感情は、抱いたことのないものだった。  少しすれば、寺の誰かが気づくだろう。  昼寝の続きをしよう。  ごろりと横になる。けれど半刻たっても誰も様子を見に来ない。赤子は疲れを知らぬのか、延々と泣き続けている。  流石に奇妙に思ったごんは納屋を出て、寺の軒下に近寄った。  そこには赤子がいた。  奇妙な赤子だ。いや、見た目は普通の赤子と変わらぬのかもしれない。ごんは赤子という生き物を初めて見るので、この生き物が赤子なのか自信がなかった。  ――そう、見えるのだ。まったく信じられないことだが、この赤子は物の見えない筈のごんの目に、はっきりと映っていたのだ。  白く掠れた視界の中、赤子の輪郭だけが綺麗に浮かんでいる。くるくると跳ねる黒髪の、ふくふくとした肉付きの良い赤ん坊。  初めて遭遇した目に見える生き物に、恐る恐る手を伸ばす。赤子は伸ばされた指をぎゅうと握って、無邪気に笑った。  なんて、可愛らしい子だろう。  ごんは初めて沸き立つ感情に戸惑っていた。  目の前の不思議な赤子が、とても大事なもののように思えてならなかった。こんなに柔らかくて、暖かで、めくらの己に笑いかけてくれる。――何より、己の世界の中にいてくれる。  震える手で赤子を持ち上げたごんは、そっと腕の中に抱き込んだ。しがみついてくる小さな手。その温さを肌で感じたその時だ。  ごんはこの赤子を守り育てる事が、己に課せられた使命なのだと、なんの根拠もなく信じたのだった。
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