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海鳴り
(ライside)
彼に疑いを向けるようになったのはつい最近のことだ。
初めは偶然かと思っていた可能性が、しだいに現実味を帯びてきた。
しかし、どう問い詰めたらよいのかわからない。デリケートな問題だし、知り合って日の浅い僕がこんなことを言うと、彼の尊厳を傷つけてしまわないか心配だった。
悩んだ末に、僕は彼に言うことにした。
夕暮れ時。教室に二人きりになったタイミングで、僕はベランダに出た。
何にもないふりをして外を眺める。見下ろすと、校庭に残っている生徒がちらほらいる。同じ目線には、オレンジ色の空のなかに、ホウキで並んで飛び立っていく二人の生徒が見えた。見つめているとその影はしだいに小さくなっていく。
彼も僕のあとに並んで、開いた教室の窓からベランダへ出た。
ベランダに置かれている水槽に手をつけ、水をすくうと、腕や顔をなでていく。水族は肌が乾燥しやすいので、常に水分補給を欠かさない。
「ライ、きょうは仕事ないの?」
「うん。休み」
「そっか」
海は僕に隣に並んで外を見つめた。夕陽に照らされたその横顔をちらりと見る。
僕を好きだと言ってくれた彼は、いま僕と二人きりでどんな気持ちなんだろうか。
再び視線を前にやった僕は、沈黙を破るように口を開いた。
「……ねえ」
「うん?」
「……今から言うこと、すごくデリケートなことかもしれない。でも、どうしても聞きたかったんだ。気を悪くしたら、ごめん」
彼のほうを見ると、海は少し怯えているように見えた。
「……うん、わかった。なに?」
僕は言い方に迷い、瞬きを何度か繰り返した。視線を何度かそらしたあと、再び彼を見つめ、思い切ってその言葉を口にした。
「海。君さ……僕の勘違いだったらごめん。……虐待、受けてない?」
彼の表情は変わらなかった。
僕は視線をそらした。
「その……答えたくなかったら、いいんだ。君の……」
「なんでそんなこと、聞くの?」
僕は顔を上げた。怒りとも悲しみともつかない表情の彼がいた。
「なんで?」
彼はもう一度繰り返した。
正確には性的虐待だ。
最初にそう思ったのは、彼の「癖」からだった。
海と僕とスイラ、三人でいつものように教室移動をするとき。海はいつも僕ら二人より後ろを歩く。
僕ら二人が歩くのが早いわけではない。彼は意図的に速度を遅めで僕らの後ろを歩いていた。
そのときは、なんてことない彼の癖だろうと思っていた。
あるとき、僕が教室に忘れ物をしたことに気づき、先に二人に移動するよう言ったことがあった。
廊下ですぐに追いついて、二人の後ろを僕が歩くような形になったとき。
自分の後ろを歩かれた海は、反射的に自分の右手をお尻に当てるようなしぐさをした。
それも会話しながらの何気ない動作で、腕を組んだり、腰に手を当てるのと同じような癖だろうと最初は思っていた。
その癖はその後も頻発した。意識して見ていないと気づかない動作だが、僕はそれが気になっていた。
何度も見ているうちに気づいたことがあった。それは、その動作は後ろに人がいるときに発生するということ。僕のときもそうだったし、ほかの生徒がたまたま後ろを通りかかったときも、何気ない動作でサッと右手が動く。後ろに人がいなくなれば右手はいつも通り、歩く動きに合わせて身体の横を揺れるだけ。
そしてもう一つ、気づいたことがあった。
その癖は、後ろを通りかかった人が「男性」だったときだけに発生する。
それに気づいたとき、僕のなかで何かがつながったような感覚があった。
僕は同じような癖をもつ人間を知っている。コノハになついているストリートチャイルドの光風だ。
たまたま僕が彼の後ろから声をかけたとき、彼は驚いて振り向いたあと、同じように右手を身体の後ろにまわす動作をした。
そのときは気にも留めなかったが、僕以外の男性と話すときも、なぜかお尻を押さえるような動作をする。彼は海より喜怒哀楽が激しいからか、海よりももっと露骨だ。時には両手で押さえるときもあった。
その後、光風の過去を知るにつれ、わかったことがある。彼はストリートチャイルドだったころ、男性に性的虐待を受けていたという。
幼い男児を性的対象とみなし、アナルセックスをする男が何人もいたようだ。これによって光風は男性恐怖症を発症し、ほかの男性に近寄ることすらできなくなった。最近は僕とのリハビリを繰り返し、少なくとも僕にはある程度近づけるようになったようだが。
アナルセックス──すなわち、男性器を相手の肛門に挿入する行為だ。
あの癖の意味を知ったとき、僕は光風が壮絶な過去を抱えていることを知った。いったい、あの小さな身体が、どれだけの人間に弄ばれ、傷つけられてきたのだろうかと、想像もしたくなかった。
あの癖はそれを物語るものだった。何度も否応なしにレイプされた経験から、無意識に自分を守る本能がそうさせていたのだろう。それを悟ったときは、彼の抱える悲しみの大きさと、彼を欲望のままに犯した人間への敵意とで、怒りと悲しみが混じったような感情になった。
だから、同じ癖をもつ海も、もしかしたら同じような経験があるのではないか。
以上が、僕が海をそのように思った理由だ。
まっすぐな瞳に見つめられ、僕は長くなるであろう理由を話そうと思った。
慎重に、言葉を選ぼうと思っていたとき。
「受けてないよ、そんなの。なんで突然そんなこと言うの」
海は弾丸のように言った。その語気に刺すような怒りを感じた。
何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。海は僕に背を向け、ベランダから教室へ逃げるように戻った。
「海、ごめん。気を悪くしたよね」
僕は必死に言葉をつないだ。こういう反応がくることを、想定していたはずなのに。
海は僕を見ないまま、早足で自分の先に戻って荷物を手に取る。
「でも、これだけは言いたかった」
僕もベランダから教室へ戻り、その背中に声をかけた。
「もし本当なんだったら、僕は君の力になりたい。それだけは言いたかった」
嘘偽りのない本音だった。海は何も言わず、そのまま教室を出て行った。
ざらつく未練を抱えて、僕は誰もいない教室を噛み締めた。
自分の言葉が、彼に届くことを願いながら。
※文中の表現は、実際の被害者のステレオタイプを反映するものではありません。
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