林檎が腐るまで

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 高校2年生、冬。受験生直前だというのに、来週は一大イベントが待っている。友だちがそう多くない私からすれば、イベントそのものはあってもなくてもいいのだが、水曜日が潰れてしまうのは少々不愉快。放課後、私はそんな気持ちを先生に吐露した。 「え、高木さん、修学旅行楽しみじゃない派?」  そんな派閥聞いたこともないが。楽しみじゃないというより、私にとっては修学旅行より美術の授業のほうが価値が大きいというだけだ。そこまでは言わないけど。 「友だち多いのに」 「多くないですよ」 「え〜?俺とこんだけ話してくれるのに?」  それは、と思う。授業後やお昼休みは、先生だって他の女生徒に囲まれてる。私の特権は毎週水曜日、美術の授業があって、先生が顧問をしてる美術部がお休みの日。  水曜日の放課後、彼は必ず第二会議室にいる。一番小さくて一番使われない部屋。その穴場を知っていたのは私だけじゃなくて彼もだった。  ここで初めて先生を発見したとき、二人だけの秘密にしようか、と彼は言った。そもそも生徒は立入禁止のはずなのに、子どもみたいに笑って言う先生に私はただ頷いた。不定期に第二会議室に来ていたのに、先生がいる毎週水曜日だけは欠かさず来るようになった。  昼は美術の教科担任として接していた彼と、少しだけ近しい距離を感じながら他愛もないことを話す。 「…お土産、何か要ります?」 「北海道だっけ。冬の雪国はつれぇぞ」  猫っ毛の黒髪が揺れる。私と15歳離れた先生の声は、低すぎないのに少し掠れてる。一音一音発するたび、その喉仏が上下するのを、私はいつも目で追ってしまう。  アダムのリンゴ、と言うらしい。アダムは、イブに勧められて、禁断の果実であるリンゴを食べてしまい、神からの怒りを買う。慌てて飲み込んだリンゴを喉に詰まらせたアダムの喉には、突出部ができてしまった。聖書ではそのふくらみをアダムのリンゴ、俗に言う喉仏としている。  その話を知ったとき、すぐに先生を思い出した。二人しか知らない第二会議室。丸みを帯びたふくらみは、本当にそこにリンゴが詰まっているようで、直に触れてみたくなる。 「あれ買ってきて、羊ヶ丘ソフト」 「…なんですかそれ」 「ソフトクリーム」 「無理です」 「んー、じゃあ本場のサッポロビール」 「未成年なんですけど」 「あはは」  けらけら笑う。私なんかをからかって何が楽しいのだろう。授業中には見せない子どもみたいな笑顔は、童顔だから余計に無邪気。  その無邪気さに、その左手薬指の指輪は、やっぱり似合わない。 「もう、何も買ってきませんよ」 「うん?あー…、うん、いいよそれで」 「……」 「酒とタバコと、変な男の味を知らないまま帰ってきてくれれば」  アダムのリンゴが動く。酸っぱい何かが込み上げてくる感覚が気持ち悪くて、俯いて堪えた。  今日、授業終わりに囲まれてた女子生徒に、お土産は白い恋人がいいって答えてたくせに。出会った頃は指輪なんてしてなかったくせに。私が先生のこと好きって知ってるくせに。 「…課題終わったんで帰ります」 「そう。おつかれ」 「来週は修学旅行なので来ません。お土産は、白いブラックサンダーでも買ってきます」 「うん、ありがとう」  第二会議室のドアを閉めた。靴箱まで廊下を走って、履き替えて、玄関をまた走って抜けた。涙が止まらない。  毎週水曜日が楽しみだった。でもある日突然、先生の薬指に銀色の輪っかがついていた。  私の視線は、先生の喉から左手の薬指に一番に向かうようになった。そうして思い出したように喉に移る。そんな自分が嫌で、忌々しい銀色を映してしまう瞳を閉じれば、先生の匂いしかしなくなるからそうしている。油絵具特有の先生の匂い。  この恋が叶うなんて思っていない。でも夢を終わらすならもっと大胆に、完膚なきまでに叩きのめしてほしい。私じゃ終わらせられない。  だめならだめと言って。"生徒だから"と言って第二会議室から私を追い出して。先生。ねぇ先生。あなたを好きな私を、もうこれ以上苦しめないで。 「…っ優しくすんな、バカ野郎…」  きっとこれは罪滅ぼし。水曜日の秘密をつくってしまった先生の、私の恋心を無下にしないようにという、彼による彼のための罪滅ぼし。私はきっと卒業するまで、彼を見つけてしまったあの日のことを恨んでしまうのだ。 おわり
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