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いつ見ても変わらない病室の天井は、薄気味悪い程の白さで僕を見下げて嘲笑う。
暑さ寒さも彼岸まで──とはよく言うものの、超天変地異みたいな目眩と、悪酔いよりも悲惨な吐き気に襲われた蒸し暑いあの晩、僕は鈍器で頭を割られたような痛みに体を捩じ伏せられた。床に倒れたまま死ぬかもしれないという恐怖に意識が朦朧とする傍らで僕の脳内を過ぎったのは、「保険金はいくら下りるかなぁ」などという他愛もない言葉だった。
誰だって死ぬのは恐ろしいけれど、碌でもない人生の幕引きがやっと僕にも訪れるとするのなら、それはそれでアリなのかもしれないと思う。悔いがないかといえば嘘になる。それでも、この世に未練が残るほどの思い入れもないのだから、僕という存在はナイルの一滴程の価値も疑わしい。
意識を取り戻してから数日、点滴の針から伝う雫がもしも止まってくれたなら、どれだけ楽だろうかと考えていた。重力に押さえ付けられてベッドに身を預けることしか出来ない僕は、呆然とした時間の中で頭痛に思考が流れて仕舞わないように歯を食い縛る。ギリギリ……ッと擦れるこの音だけが、僕の存在を自覚させてくれる墓標のようなものにすら思えた。
医学に精通していなくても聞き覚えのあるその病名は、脳味噌のヒューズが飛んだように僕を蝕む。
担当医からは「重症じゃなくて良かったですね」なんて声を掛けられたものの、その言葉に歯切れよく返事が出来るような程、僕の心根は真っ直ぐじゃなかった。かつては面倒にすら思った仕事も、持て余した時間を没頭できる趣味すらも痛みの波に溺れて遠く消え去ってゆく。
何が引き金になるか分からない地雷原を歩かされる三等兵のような僕が携帯を開く事ができたのは、倒れてから数日経っての事だった。
「お父さんとも相談したんだけれど……またいつ倒れても大変だから、一人暮らしはやめて実家に戻らないかって……」
病室のベッドで上体だけ起こしたまま掛けた電話越しの母が朗らかに笑うと、「本当に心配したのよ」と嫋やかな声がスピーカーから僕の内耳に響く。
「それは……ッ……まぁ、そう……だね」
母の言葉に反射的に噛み付きそうになった僕はグシャグシャと髪の毛を乱すと、冷静を装った声色でそのまま首筋に手をやる。人差し指の爪が皮膚を抉る嫌な感覚に眉根を寄せ、僕はそのまま言い掛けた言葉を生唾と一緒に飲む。
「ほら、この前のお盆だってお兄ちゃんが帰ってきたからみんな凄く喜んでたし……どうせ貴方のことだから、荷物だって少ないでしょ?」
悪気のない母の言葉に、押し潰して宥めた感情が大きく渦を巻く。痛みを感じても止まる事を知らない指先にうっかり力が入り、ガリ……ッと音を立てた冷たいソレは温もりを携えて途端に滑りが良くなる。
──あぁ、やらかした……。
静かに溜息を吐いたまま首筋から離した右手はベットリと赤い液体が広がり、やれやれと首を振りつつ電話の向こうで僕の返事を待つ母に「ごめん」と言葉を返す。
「今ちょっとアレだから、また明日電話する」
枕元に置いてあるティッシュを2、3枚掴み取って傷口に当てがった僕は、この傷から溢れる血糊が止まらない未来を想像した。体内を無条件で駆け巡る働き者が、僕という檻から全て放たれて自由になったのなら──?そんな無益な妄想だけが、今の自我を円満に保つ防護策でしかないのに。
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