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『夢』というものは、人間の理想を具現化する鏡だと思う。
僕の人生は物心ついた頃から、雑多で色とりどりの本が侍る。
まだ平仮名を覚えるのもやっとの頃は母が枕辺に並び、子守唄の代わりに読み聞かせられる物語の数々が当時の僕にとって世界。まだ見ぬ何処かの冒険譚や、愚直な人間の寓話、情緒豊かな恋愛劇……数え切れないほどの作り話を貪るように聞き入った僕は、その中でも『人魚姫』が一番のお気に入りだった。
叶わぬ愛情の末に泡と化した彼女は悲恋に語られることも多い。しかし、僕にとってあの物語は愛しい誰かの為に自分の命を焦がすことのできる幸せにも思える。
人はいつか死ぬ。
その事実はどんな理論理屈を並べて否定しようとも、論破することのできない自然の摂理なのだ。
仮に自分の結末が選べるのなら、幸せの向こう側に見える衰退を味わうハッピーエンドより、酷いぐらいの身勝手でも構わないから、『誰かの為に』散れる未来が良い──。これが、自分本位で恩着せがましい僕の根底に流れる全てなのかもしれない。
そんな屁理屈を重ねる僕の身体を包むのは、神々しいまでの憧れにも似た生暖かい塩水で、口の中を潮で蹂躙するソレは余りにも横暴だった。
昔から金槌な僕にとっての海は、手の届かぬ楽園で絶望的な地獄。踠いて、踠いて、踠き続けた先に掴むのは、せいぜい自分の肺から零れた二酸化炭素ぐらいである。
サラリと擦り抜ける水は低体温の僕に丁度いい安寧をもたらし、足の付かない底に揺蕩う僕は心の何処かで緩やかに笑う。
たった今も沈む僕を掬い上げるような暖流と、飲み込むような寒流の隙間で震えて足元を見下ろすと、そこには二十数年連れ添った身体の一部が姿を変えて存在していた。
人間という哺乳類の下半身は、決まって腰を目印に分岐している。しかし、僕が目の当たりにしたソレは僅かな地上の光を受けて虹色に輝く、プラスチックみたいに硬い鱗がびっしりと並ぶ魚の尾鰭に他ならない。ゆらゆらと帯を引く光景に目を丸くした僕は、自らが作り出した水流に身を翻して潮水を掻いた。進むたびに肌を擽る水の感触に鱗を通すと、ミラーボールを回すように光が不規則に煌めいて散る。
──これはきっと、本望だ。
この海に存在するのは、僕が求めて止まない唯ひたすらの自由だった。
誰にも何にも縛られることのない安楽に最後の空気を吐いた僕の瞳から、月明かりのように不透明で淡い雫が溢れる。つるりとした上品な表に滑る色は乳白色で、どす黒い感情を飲み込んだ僕には似合わないそのパールは、僕の代わりに酸素を追い掛けて水面へと走ってゆく。
深く深く息を吸い込むみたく潮の香りを肺に流し込んだ僕は、心の臓に支えた負担ごと逃すように水を吐く。
その水が噎せ返るほど酷い酸味のある匂いと味を主張した時、吐瀉物に塗れた僕は目を覚ました。
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