第二章 夢を乗せ、悩みを乗せ、走る

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 僕が目を覚ますとヤドカリが目の前にいた。自分を起こそうとして声をかけてくれている。 「おーい、大丈夫かい?1人?」  心配そうにいろいろたずねてくるヤドカリ。僕は起き上がり座り込んだ。何か冷たいものが足にふれる。水がいったりきたりして足に当たっていた。海の水だ。周りを見渡すと薄茶色の砂浜。どうやら自分は波打ちぎわに倒れていたようだ。  なんだか体が重い……起きたばかりだからだろうか。 「ここ、どこ……」  やっとのことで出てきた言葉だった。かすれていて小さな声しかだせない。 「ここ?海だよ、瀬戸内海」 「瀬戸内海……どこだっけ……」 「瀬戸内海は広いけど、ここは広島県の竹原市だよ。毎年5月のこの時期になると、君と同じアビって鳥がたくさん飛んでくるんだ。毎年数は少なくなるけど、今年は君だけなんて。海から流れてきたけど、どうしたんだい?」  ヤドカリは優しく話しかけてくれる。 「あ、私は宿川っていうんだけど、君の名前は?」 「分からない……名前……あったはずなのに……なんでここにいるのかも、帰る場所も分からない……」  何も思い出せなかった。 「困ったねぇ。そろそろ夜になるけど、帰る場所が分からないのか。じゃあ、私とくるかい?」  宿川さんがぽんぽんと優しく僕の翼をたたいてくる。 「私これから海の中にもぐるんだ。家が海の中でね。帰る前にあるところに寄るよ。君も海の中で呼吸する必要がある。人間に変身できる能力をもらおうね」  よく分からなかったけど、質問する前に宿川さんは僕の手を引いて歩き始める。僕はフラフラするけどちゃんとついていけた。ヤドカリの彼は小さな体だが、その背中は力強く感じられた。記憶がなくて不安な僕はこの人についていけば大丈夫、とちょっと安心したのを覚えている。 「苦しいだろうけど、ちょっと我慢してね。すぐ着くから」  そう言って宿川さんはざぶんと海に飛び込んだ。僕も引っ張られて海へと吸い込まれた。水が顔に当たってうまく前に進めない。思わず息をしようとしてしまった。 「苦し……くない。しかもしゃべれる」 「これは驚いた。君はもう能力をもっているのかもね、良かった良かった。じゃあそのまま私についてきなさい。どこも寄らないで帰るよ。ちょっと遠いけど私の家に案内するからね」  宿川さんは記憶がない僕に気をつかって何も聞かないでくれた。そのまま僕らはしばらく海底を歩いていく。  海の底には小さな町があった。貝殻でできた家、きれいに切られたワカメの公園、捨てられた家電のビルが立ち並ぶ道。車がビュンとそばを通った。 「海の皆が人間の車を真似して、海の中で走れる車を作ったんだって。さあバスに乗ろうか」  僕は宿川さんの後ろをついてバスに乗る。バスの中は意外と普通だった。2列席がいくつも並んでいる。 「私の家は宮島ってところの海なんだ。赤い鳥居に惹かれてね、引っ越してきたのさ。今日は海の魔女さんにお礼を言いにきてたんだ。彼女にもらったアドバイスを参考にしてもうすぐ仕事が始められそうだってね」 宿川さんは窓側の席に僕を座らせながら言った。海に魔女がいるのか、と僕は少し驚いた。 「ちょっと散歩して帰ろうと思って海の外に出てたんだ。君が海からうつ伏せで流れてきた時はあわてたよ」  バスを降りると宿川さんの家はすぐ近くだと言う。 「君のことはなんで呼ぼうかな、アビって鳥だから……」 「アビ、アビがいいかも……ちゃんと僕にも名前があるって思えたから」  僕は少し元気になってきた。 「ヤドカリにヤドカリ!って声かけてる感じだよ?でも君が気にいるのなら……うん、アビもいい名前だ。本当の名前があるのに、別の名前で呼んだらややこしくなりそうだし」  宿川さんはハハハと笑った。そして続けて言った。  「本当の名前、思い出したら教えてね。それじゃあアビくん」  目の前にバスと人間の男性が立っていることに気がついた。男性は短い髪で、背が高い。あとで紹介してもらったが、柿島さんだった。  海の中なのに人間?と驚いていると 「今日からよろしく!私の仕事を手伝ってくれないかな?」  宿川さんの声がした。そちらをみるとヤドカリの姿はなく、人間になった宿川さんが立っていたのだった。
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