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第九話「別れの挨拶」
第九話「別れの挨拶」
その日の朝、光流は投与する筈だった、
反成長ホルモンを打たなかった。
自分が拉致された場合、サンプルとしての役割を少しでも乱したかったから。
成長が進み、癌細胞が大きくなれば、今の自分の能力も消えるかもしれない。
だが、よくよく思えば全ては根拠の無いただのやけくそだった。
全くといっていい程心の余裕も無い。
仏壇に増えたミクさんの遺影と母の遺影に手を合わせ、
せめてものはなむけに、家のそばにある子供の頃から行っていた寿司屋の「やまだ」に昼飯を食べ
に向かった。
久方ぶりのやまだの大将は、嬉しそうに光流をもてなした。
「光流ちゃん、久しぶりだねえ」
毎年誕生日はここで食べていたが、去年は癌が発覚してそれどころではなかったのだ。
好きなネタを大将が覚えていてくれたから、何も言わなくても次々出てくるシステムになっていた。
ウニ、トロ、さより。
この後の事を思えば喉を通らなかったが、最後の晩餐だと思って無理をして食べた。
ここの寿司屋には光流が子供の頃、いたずらでカウンターに付けた傷跡あり、それ以来その席が指定席となっていた。
母親と父親に祝ってもらう、ありふれた誕生日。
母親が死んでからは、父とミクさんに祝ってもらっていた。
なにもかも、もう戻ってこない。
涙をこらえながら食べる寿司はなんだかほろ苦い味がした。
今生で最後の寿司。
せめていつもの自分を演じようと精一杯頑張っていた。
食べ終わり、お茶を飲む。
「お会計、おねがいします」
すると大将は、首を横に振った。
「いらないよぉ。光流ちゃん去年、大変だったから誕生日も握れなかっただろ?だからさ、俺からの遅めの誕生日プレゼントだよ」
「ええっいいですよ、そんな」
「いやいや、そんな辛そうな顔してまで寿司食べにきてくれたんだ。今回はお祝いさせてよ。そんで、また次の誕生日もうちでお祝い、やってよ」
そういって大将は、お金を受け取らなかった。
愛想笑いでその場をやり過ごした光流が、店を出ると、大粒の涙が一筋こぼれた。
次にやる事は、決まっていた。
地下にある理恵の病室に顔を出す事だ。
理恵はまだダメージがあるらしく、やや辛そうに起き上がった。
「おお光流、元気?」
いつものように、自分よりも光流の事を気にしている。
「うん。まあまあ」
明らかにいつもと違うその返事が、理恵には何か感じるものがあった。
「もうすぐ復帰するからさ、ちょっと待っててよね」
「ええ? もういいよ、療養してなよ。瞳ちゃんもいるし」
「なーに、若い女が来たからアタシは用済みって事?」
「ハハッ病人は危ないから寝てろってこと」
冗談を言い合っても、やはりいつもとは空気が違う。
「最近は出動しないの?」
「んん? 平和だから。じゃあちょっと、予定あるから行くね」
理恵は、急に真顔になった。
「光流、ハグして」
「撃たれた所、痛いんじゃないの?」
「いいの」
この時、扉の外から、瞳はそれを見ていた。
「じゃあね、理恵さん」
そういってドアを開けた瞬間、光流の前には瞳が立っていた。
「はっ」
全てを教えてしまったが故、瞳は別れを告げず出て行こうとしていた光流。
だが瞳は、どうしても最後の挨拶を果たたかった。
しかし、いざ目の前に光流が立っていたら、何もいえなかった。
代わりに光流が口を開いた。
「戻ってくるつもりだけど……万が一の事があったら……ごめん」
先日と違って、こちらが本音に近かった。
どうしても、騙しきれなかった。
「……」
「じゃあ行くね」
「あの!」
「うん?」
「あたしも……ハグしてくれませんか……」
精一杯の一声だった。
色々な想いの詰まった一声だった。
光流は、無言で抱きしめた。
瞳は、ふたをしていた自分の気持ちに、気が付いていた。
思えば、最初に命を救われた時から、きっと私は彼に惹かれていたんだ。
自ら望み、抱きしめられた瞬間にそれに気づいた。
ほんの僅かな時間。
されど本当に長い時間。
自分の心に気付いた瞳にとっては、あまりに満たされた時間だった。
気を失いそうな程に。
ふと気付けば、光流は旅立っていた。
この先の死地に向かって。
瞳(ひとみ)は何をするべきか。
考えた結果、光流にとっては最もしてほしく無い選択肢を選ぶ事になる。
……外は激しい風が吹いていた。
それは光流の心を代弁するような、激しい風だった。
続く。
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