「黄色いおじさん」との交流

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「黄色いおじさん」との交流

その日から、僕は黄色いおじさんに挨拶を返すようになった。 「おはようぎょざいます事件」はトラウマになってしまったけど、それ以上に、おじさんに褒めてもらえたことが嬉しかったから。 ──挨拶は続けてね。『おはよう』って言うだけでその日がきっと良い一日になるから。 あの言葉は今も、僕の脳裏に刻まれている。 「ハイ、おはよう!」 「おはようございます」 おはよう。それは、魔法の四文字だ。人の心をぽかぽかにしてくれる。 だから、苦手な体育の授業がある日でも、嫌いなナスが給食に出る日でも、僕はおじさんと挨拶を交わすだけで前向きな気持ちになれた。 横断歩道が見えてくると、自然と足取りが軽やかになった。 ──そして。 初めて挨拶した日から一週間後。僕は二度目のチャレンジをする。 朝、横断歩道の前で信号待ちしていたとき、思い切っておじさんに話しかけてみたのだ。 その頃には、怖いだなんて印象は、これっぽっちも残っていなかった。 おじさんのことを、もっと知りたい。もっとたくさん、話したい。 その気持ちが、僕の背中をそっと押してくれた。 「…ねえ、おじさんは、なんでいつも黄色い格好してるの?」 僕が話しかけてきたことに驚いたのか、おじさんは目をパチパチさせて、それから、嬉しそうに顔をほころばせた。 「目立つからだよ、この格好だと。地味なおじさんよりも、目立ったおじさんの方が子供たちも挨拶をしやすいんじゃないかと思って」 …僕には逆効果だったけどね。心の中でつぶやく。 一年生の頃、颯爽と横断歩道を駆け抜けていた自分が、なんだか懐かしく感じられた。 「あとは…単純に、黄色が好きだからかな。交通誘導員は普通、緑色の服を着ているんだけどね」 「それじゃあ、赤とか青もいるの?」 可笑しそうにはにかんで、おじさんは「いるかもねぇ」とうなずく。 「それじゃあ、そういう人たちをたくさん並べたら、虹ができるね!」 「ハハハ、ボクは面白いことを言うなぁ!」 そう言いながら、おじさんが旗を上げる。 「あ…もう青か」 「じゃあ、学校楽しんできてね」 「…うん」 ちょっと名残惜しかったけれど、おじさんに別れを告げて、横断歩道を渡った。 歩きながら、さっきの会話の内容を思い出してみる。 僕は、顔がニヤついてしまうのを隠せなかった。 ──黄色いおじさんの秘密、また一つ知っちゃった! 謎が解き明かされるようなワクワクした気持ちを胸に、僕は学校への道を一直線に進んでいった。 ※ 翌日から、信号の待ち時間におじさんと話をするようになった。 もちろん、いつも赤信号になるとは限らないから、横断歩道に到着するタイミングを調整しながら歩く。 「ハイ、おはよう!」 「おはようございます」 この挨拶から、僕らの会話は始まる。 でも、そこから先の内容はバラバラだ。 「おじさんって何歳?」 「えーっと…実は、二十歳!」 「ウソだ!絶対百歳超えてる!」 「…そんなに老けて見える?」 と、おじさんが悲しい目をした日もあったし、 「おじさんは結婚してるの?」 「してないよ。ずっと独身」 「…誰か気になってる人とかいないのぉ?」 「この年で結婚は無理だよ」 「えーっ、でも、二十歳なんでしょ?」 「うーん…」 と、容赦なくプライベートに踏み込んで困らせてしまったこともしばしば。 僕の質問はだいたいそういう内容で、明らかに失礼なものもあったけれど、おじさんは怒らず丁寧に答えてくれる。 「おじさんって、本当の名前、なんて言うの?」 「本田正」 「しぶっ!やっぱり、『黄色いおじさん』が一番いいね」 「ふふ、そうだね。ボクの名前は、なんて言うの?」 「健斗だよ。立川健斗」 「じゃあ、これから健斗君って呼んでいい?」 「うん、いいよー!」 こうして呼び名が「健斗君」に変わった頃には、僕らはすっかり打ち解けて、年の離れた友達のような関係になっていた。 …でも、一つだけ問題があった。 それは、同じ学校の子たちが黄色いおじさんにちょっかいを出すこと。 ある日は、一つ上の学年の男の子がおじさんの旗を奪って、挑発するような笑みを浮かべていた。 「大切なものだから返してほしいな」とおじさんは優しく言うけど、もちろんその子は言う通りになんてしない。そのまま横断歩道を渡って、学校の方へ逃げていってしまった。 そうなると、もう会話どころではない。おじさんはいつになく慌てて、「車に気をつけるんだよ」と他の子供たちに念を押してから、男の子を追いかけていった。 こんなトラブルが起きるのは日常茶飯事だった。おじさんと平和に会話できる日の方が、むしろ少なかったかもしれない。 他の人からするとどうってことないんだろうけど、朝のこの一番の楽しみがなくなってしまうのは、自分にとって何よりも残念だった。 ──そこで、小学三年生になったばかりの僕は秘策を思いついた。 家を出る時間を、十五分ほど早めてみることにしたのだ。 ※ その時間帯、まだ小学生の姿はなかった。 スーツを着た人、犬の散歩する人、スポーツウェア姿で走る人。大人だけの通学路は、まるで全く知らない道みたいだ。 黄色いおじさんは、横断歩道の前、いつもの定位置に立っていた。 手に持つ旗をだらりと下ろし、どこか遠くを見つめている。 交通誘導員の仕事は、児童の安全を守ること。守るべき人のいない早朝は暇なのかもしれない。 「おはようございます」 今日は自分から挨拶をした。よく考えれば、こちらからするのは初めてだ。 おじさんは我に返ったようにこちらを振り向いて、白い歯を見せた。 「ハイ、おはよう!健斗君、今日は早いね。何か用事があるの?」 「…ううん、別に」  おじさんと話したかったからなんて、恥ずかしくて言えない。 ぱちり。 合図かあったかのように、信号の色が赤く変わった。 二人きり。話す時間はたっぷりあるはずだ。 「…おじさん、あのさ、前から気になってたんだけど」 「うん?」 僕は、首からかけられているロケットペンダントを指差した。 「そこって、なんの写真が入ってるの?」 瞬間。 おじさんの顔から、笑みが消えた。 目を見開いて僕を見つめ、それから、首元に視線を落とす。 骨ばった手が、ペンダントをぎゅっと握りしめた。 おじさんはそのまま、身じろぎもしない。 僕は、おじさんとペンダントに交互に視線を移しながら、その場に立ち尽くしていた。 ひたいから、変な汗が噴き出てくる。 ──ああ。 絶対に、触れちゃいけないことだったんだ。 それだけは、三年生の自分にも察することができた。 車道をタイヤが滑る音が、消える。信号が青になった証拠だった。 「…ごめんなさい」 僕は「横断中」の旗を避け、逃げるように、横断歩道へと駆ける。 足を踏み出す直前に見たおじさんの顔は、土砂降りの日の雨雲みたいに、暗く沈んでいた。
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