「黄色いおじさん」と事件

1/1
前へ
/5ページ
次へ

「黄色いおじさん」と事件

結局、早く登校する計画はその一日で中止になってしまった。 ──そして、僕はまた、おじさんから距離を置くようになった。 登校する小学生の中にうまく紛れ、「ハイ、おはよう」を無視して横断歩道を渡る。 あの日以降も、おじさんは変わらず挨拶をしてくれていた。 でもきっと、相手も何か思うところがあるんだろう。それ以上、僕を引き止めたりはしなかった。 5日経ち、10日経ち、20日が過ぎた。 こんなに長く苦しい日々は、今までもこれからもないだろうとさえ思った。 僕たちは、気まずさ──いや、それとは少し違う複雑な気持ちを、それぞれ抱えたままだった。 ※ 一ヶ月後。 僕は、アスファルトとにらみっこしながら人混みの中を歩く。 …横断歩道が、迫ってくる。 「ハイ、おはよう」 傷口に消毒液をかけたような痛みが、全身を貫いた。僕は唇をぎゅっと噛み締める。 と、その時。 「危ない!!」 叫び声が響き渡る。 ハッとして顔を上げた。 僕の目に真っ先に飛び込んできたのは、横断歩道へ飛び出した少年と、その腕をつかんでいるおじさんの姿だった。 信号は──赤。 おじさんは、すぐに少年を歩道に引き戻す。 その目の前を、車が通過していった。 ほんの一瞬の差だ。 「危ないだろ!!」 耳をつんざくような怒鳴り声。 通行人は足を止め、みんなあっけに取られたように二人を見つめている。 「なんで赤なのに飛び出してるんだ!」 少年は手に「横断中」の旗を持っている。 それで、だいたい見当はついた。おじさんから旗を奪って、そのまま逃げようとしたんだろう。 信号が赤だということにも気づかずに──。 「死ぬかもしれなかったんだぞ!君が死んだら、家族も友達も、たくさんの人が悲しむだろ!」 おじさんが怒っているところを、僕は初めて見た。 いつも仏様のように微笑んでいたおじさんが、小学生に絡まれても決して叱らなかったおじさんが、ちょっと大人しい性格だったおじさんが──。 僕は、今、眼前にある光景が、とても信じられなかった。 おじさんは、まるで別人のような変わりようだった。少年を見つめる眼光は鋭く光り、深く刻まれているシワには威厳すらある。足がすくむほどの迫力が、ここまで伝わってくるようだ。 青ざめた少年は、怯え切った様子で頭を下げた。 「ごめんなさい…」 おじさんは、なお厳しい表情を崩さなかったが、少年から旗を受け取ると、 「…次からは、気をつけてね」 その口調は、表情は、もう元に戻っていた。 そして、ひとかたまりになって動けないでいる僕らの方に、身体を向ける。 「…ハイ、おはよう」 誰も返事をしない。 周りの人たちはぞろぞろと歩き始めたけれど、みんなおじさんを避けるように横断歩道を渡っていく。まるで、おじさんの前にだけ、透明な壁でもあるみたいに。 僕は胸が苦しくて仕方なかった。 無言でその横を通り過ぎながら、意味もよく分からない「ごめんなさい」を、心の中で何度も何度も繰り返した。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加