独りぼっちになったあとで

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 翔太を失ってから二年という月日は長いか短いかわからない。私には翔太の死の痛みがあり、弘志に対する怒りの気持ちより、許してやりたい、一緒に暮らしたいという気持ちの方が徐々に大きくなっていった。妻はもっと切実だったのだろう。その時の私よりもはるかに重くて激しい痛みをわかってやれれば、弘志を呼び戻していた。  弘志はいつか、きっと帰ってくる。私はずっとそう信じていたのかもしれない。妻が死んでからはそれが心の支えになっていた。翔太の死は弘志に伝えたが、何の連絡もなかった。妻の死は知らせなかった。妻の死を知らせることは、私が弘志に帰ってきてほしいと告げているようでできなかった。私のバカでちっぽけなプライドが弘志を呼び戻すことを拒んでいた。弘志に対する怒りはとっくに消え失せていたというのに。  母の死を知ってか知らずしてか、弘志はその数カ月後に私の生まれ故郷の南米へと移り住んだ。弘志が日本にいる時から苦労していることはおよそ見当が付いていた。私は探偵社に弘志の南米での足取りも追わせた。もちろん、密かに追わせるだけで、それ以上のことは何もしてやらなかった。  私たちの人生の歯車はどこで狂ってしまったのだろう。ほんの五、六年前まで私たちには幸福しかないように思えた。弘志が家を飛び出したあとも、その数カ月後には幸福を取り戻していた。翔太が死んだ後も、その数カ月後には・・・・  いや、違う。弘志が家を出た後に取り戻したと思った幸福は、そのうちの何割かが偽物で繕われていた。翔太が死んだ後の幸福は(それは私だけが幸福だと思いこもうとしていたものかもしれない)そのほとんどが偽物だった。  翔太はプライドが高く勝気な所があったが、思いやりのある優しい子だった。弘志は翔太の性格に正直さとのんびりとしたところを加えたような子だった。二人とも負けず嫌いな所はそっくりで、勉強もスポーツもしっかりやった。私の仕事と会社にとても興味を持ち、二人と仕事のことについてよく話をした。  二人とも私の会社の未来の経営者としての素質を十分に持っていた。時が過ぎ、二人の息子たちが会社の経営を担い、幸せな家庭を持ち、その中の一員として私がいる。そんな未来を思い描いたこともあった。  四日前から私は仕事が手に付かなくなっていた。  弘志の死を伝えたのは探偵社だった。  仕事はどうしても必要なこと以外キャンセルしたままだ。翔太の死も、妻の死も私をそれほどまでに苦しめることはなかった。長年ずっと私は仕事ばかりで生きてきた。その習慣は翔太の死や妻の死でも変えられなかったのに。  四日前の朝の連絡に続き、その日の午後に届いた報告書には、弘志がテロ事件に巻き込まれて死亡したという短い文面があるだけだった。その後、国の機関からも弘志の死が伝えられた。ただ、テロ事件に関係したことで、弘志には無関係なこととはいえ、現地は混乱していて詳しい情報ははっきりとはわからないようだった。  私は会社を去る決意を固めた。親父とお袋と妻と息子たちのために築き上げてきたこの会社も、私には必要がなくなった。あとは一人で静かに暮らすのがいい。私の気持ちを読み取って何とか私を立ち直らせようとする者、ほとんど諦めている者、多々いたが、終焉しかない私が今まで通りに仕事をこなせるはずがなかった。  会社のベルが小さくなって、十二時を告げた。朝から椅子に腰掛けたままぼんやりと考え事をしていただけだった。  私は机の上に重ねられた郵便物を手に取った。妻を亡くしてから家に帰ったり帰らなかったりの生活をしていたから、郵便物の束は会社宛の物と自宅宛のものがあった。それらのどれもが私の興味の対象にはならなかった。だが、束ねられた封筒の中に奇妙な封筒があるのに気が付いた。  私はその封筒を抜き出した。それは海外から送られてきたものだった。宛名は見慣れた外国の文字が並んでいる。手が震えてくるのがわかった。  それが弘志からのものだとすぐに察しがついた。  恐る恐る封を開けると、中には日本語で書かれた短い手紙が入っていた。
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