独りぼっちになったあとで

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 先代の社長、つまり私の親父は南アメリカから来た日系人だった。向こうでの事業に失敗した後、労働者として一人で日本にやってきて、身寄りのない中、黙々と働いた。やがて独立し、従業員を一人二人と増やしていくまでそれほど時間はかからなかった。支店を出して、さあこれからというときに親父は死んだ。急激な成長を遂げる会社の社長の死にしては、質素で寂しい葬式だった。  私とお袋が、預けられていた日系人の経営するジャングルに近い農園から日本に呼ばれたのは、親父が独立し、苦労した後に会社が軌道に乗り始めた時だった。姿は日本人と同じでも、南米の貧しい農家に生まれ育ち、日本語を話せなかった親父は眠っている時以外は全て仕事のために生きているようだった。私とお袋のために人生の全てを仕事に費やした。  私はすぐに日本の生活に慣れた。ここでの生活は故郷とは海の中と外ほども違うものだった。私は外に出て毎日、生活と文化と環境の変化に驚き、戸惑い、楽しんだ。私は当然のことながらすぐには日本語が話せず、友達もできずに孤独だったが、家には親父とお袋がいるという安心感があった。日本の家には生活に対する怯えも悲しみもなかった。  親父は誠実で真面目だった。そこは日本人の血を引いているせいかもしれなかった。従業員からは好かれ、同業者、商売相手からも頼りにされた。初めて親父に接する人は大抵、たどたどしい日本語に不安を抱き、時には軽蔑に近い眼差しを向けた。しかし何度も接するうちに不安は信頼と安心に変わっていった。裸一貫で日本に来た親父が独立し、たちまち会社を大きくしていけたのは、多大な運があったが、その人柄のためということもあった。  私たちは毎日が張りのある幸せの絶頂期にいた。従業員は少しずつ増えていき、親父と会社のために一生懸命に働いてくれた。人手はいつも足りず、仕事はいつも手一杯なほどあった。私も学校を卒業すると親父と一緒になって働いた。親父の苦労を知っていたから、その顔を潰さないように必死になって働いた。  そんな時に親父は死んだ。あまりにも突然の死だった。
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