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自分たちは友だちだ
折原の手を握った日からもう何週間たっただろう。その間、今井になにも言わないまま過ごしてきた。毎日寝る前に話さなければと思うのに、どうしても声がかけられない。
だが、今井とは夏休みに約束したのだ。自分たちは友だちだと。ならば、きちんと伝えることが誠実な態度だろう。それに、自分が今井の立場ならやはり相手から直接聞きたい。
「……委員長、部活お疲れ」
「山宮君もお疲れさま。下校放送、聞いてたよ」
勇気を出して言ったが、今井はいつも通りにっこりとした。口調もいつもと変わらず、笑みを浮かべている。山宮はこぶしをぎゅっと握り、口を開いた。
「委員長、あのさ」
だが、言葉は出てこなかった。花火大会の日に泣いていた彼女の浴衣姿を思い出す。折原に告白できないと泣いていた彼女。自分よりも折原の側にいながら、自分ができる権利を彼女は持っていなかった。
「俺は、その」
なんて言えばいい。付き合うことになったと伝えなければ誠実とは言えない。だが、そもそも奪った側の自分がなにか言うこと自体間違っているのかもしれない。どう言えば今井を一番傷つけない言い方になるのだろうか。
山宮が迷っているとふふっと笑う声がした。そちらを見れば彼女がおかしそうに口元に手をやっている。
「山宮君も朔ちゃんも不器用なんだなあ。とっくに分かってるよ。気を遣わないで」
「……その、本当に、ごめん……」
山宮の言葉に今井は苦笑するように口元を歪めた。
「山宮君が謝ることじゃないでしょ。こればっかりは仕方のないことだと思うし」
そこまで話し、彼女は「ううん」と首を横に振り、表情を消した。少し低い声で淡々と言う。
「前みたいに本音を言うほうがいいね。心の底から悲しいよ。なんでって山宮君を問い詰めたいし、朔ちゃんを返してって言いたい。あたしのほうが朔ちゃんの近くにいたのに、どうしてなんだろってすごく思う」
それを聞いて山宮も顔を歪めた。自分と彼女のなにが決定的に違ったのだろう。同じ人が好きだった。お互いそれを知っていた。一時期はそれを頼りに約束した仲ですらあったのだ。
二人の間に風が吹き抜けていく。抑揚のない言葉に山宮の心が冷えていった。一番自分の気持ちを分かってくれた相手を傷つける結果になってしまった。まだ冷たい春の風が自分の髪を揺らし、黒髪のポニーテールも揺れた。
「でも、山宮君の気持ちも分かってたから、よかったねって言いたくもある。だって、あたしが山宮君の立場だったら、山宮君はそう言ったでしょ」
「……そう、思うわ」
それは本音だった。すると今井は白い歯を見せた。
「あたしね、朔ちゃんにアドバンテージがあるんだ。山宮君の元カノはあたしってこと」
明るい口調に思わず笑うと、彼女もふふっと笑った。風に揺れたほつれた髪を耳にかけ直す。
「きっと、いつか気持ちの整理がつくと思う。それまで……まだ好きでいてもいいかな。山宮君には申し訳ないけど」
「んなことねえよ。人の心は縛れねえって、そんなの俺と委員長が一番よく分かってるだろ」
すぐに返すと、今井がいつものように朗らかに笑って揺れるスカートの裾を整えた。
「そう言ってくれると思った! あたしたちは多分すごく特別な関係だよ。山宮君はあたしにとってそういう人。だから、山宮君を応援してるよ」
「……ありがと」
「うん、すっきりした! 下校時刻も過ぎてるから早く帰らないと。山宮君も最終下校時刻の放送があるもんね」
それじゃあまたね。今井がたっと駆け出した瞬間、校舎からの明かりできらっとなにかが光ったのが見えた。目元を拭ったポニーテールが遠ざかる。
腹の底が震えそうになって力を入れ、放送室に戻った。黒のデッキの時刻を見れば、今井と話していたのはほんの数分だった。だが、これは必要な数分であったし、この腹の痛みも必要なものだったはずだ。
スマホが点滅して振動する。「朔」のアイコンが画面に浮かぶ。
『用事終わった。今日はなんの宿題をやったの』
思わずほっとし、英語の問題集のページを打ち込む。すると折原はどこどこで引っかからなかったかと尋ねてきて、まさにその通りだった山宮は家に帰ったら教えてくれと返事をした。
折原は不器用だ。勉強ができて運動もできてなんでもできるように見えるのに、心に傷のついた弱いところを持っていて、じくじくと治らないそこを笑顔という絆創膏で必死に隠している。夏祭りに今井と出かけたとき、昔折原になにかあったということは分かった。折原のようにまっすぐ物事を捉えるタイプは、つらいことも嬉しいことも同じ重さで受け止めてしまうのだろう。いつか自分に打ち明けてくれたらなと思う。
先ほどの今井の涙を思い出し、なんとなく、折原は自分たちのことについて今井ときちんと話していないのではないかという気がした。今井は折原の傷を間近で見たことのある人物だろうから、今井からは決して傷つけるようなことは言わないだろうし、折原もどこかそういう今井に安心しているようなところがある。山宮はそれは甘えだと一刀両断してしまいたくなるが、できないことがあるというのは人間らしい。そして、自分は折原のそういうところが好きなのだ。
マイクの前で深呼吸し、頭の中で放送の言葉を繰り返す。チャイムが鳴ると、山宮はスッとつまみを押し上げて、「最終下校時刻になりました」と誰も聞いていないかもしれないその日最後の放送を行った。
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