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「ただいま」
「……ただいま」
むっとする黴臭いにおいが那智の鼻をついた。
だけどそれでさえ何か懐かしいと思える気がした。
「よしもう唱えなくていいぞ」
そう言ってソファに上着を投げ捨てると刻人は椅子に腰かけ、机に足を伸ばす。
「だから汚いってば。何度も言ってるでしょ」
那智がそう憤慨すると刻人はいつも通りの冷静沈着な口調で言った。
「その様子なら大丈夫だろ」
「なに?」
「心を強く持つようにして居場所があれば引かれる力も少なくなるはずだ」
居場所。
自分の居場所。ここが。
なぜかジンと胸が熱くなった。
「それにしても客を招き入れる時は注意しろ。誰でも入っていいなんて言うな。許可することは霊を自ら呼び寄せるようなものだ」
普段口数少ない刻人がそう言うので那智はカチンときた。
「せっかく、ちょっとはイイかなって思ったのに……」
「なんだ」
刻人が首を傾げる。
その無神経さになぜかカッとなってしまった。
「無能ヤロウで悪かったね!じゃあなんで刻人さんはなんでそんな無能ヤロウに鍵預けて出てくのさ!」
「それはお前……」
困ったように刻人は口をつぐんだ。
困っている?刻人が?
それこそ自分の思い違いかもしれない、と那智が思うと刻人が言った
「お前この建物にいるのが好きなんじゃないのか?」
はあ?那智はあんぐりと口を開いた。
自慢じゃないが自分はどちらかというと綺麗好きなのだ。
部屋に物はほとんど置かないし、吸着シートや掃除機で毎日掃除だってする。
そんな自分がなぜ好き好んでこんな埃とカビで臭くて、床は地面と同様土足で歩くという汚さで、おまけに寄り付いている猫の態度がキツい、家主である刻人の自分に対する対応がキツい、という臭い汚いキツいの3Kがそろった部屋に愛着を抱くというのだ。
「頭湧いてんの。そんなわけないじゃん」
子供が親に反発するように大人気なくそう言ってみる。
「いや、お前前に自分のアパートに帰りづらいみたいなこと言ってただろ」
んぐ、と胸を詰まらせる。
言った。言ったけどそれは。
「もう平気だよ。あれは心霊現象あったときなんだからさ。もう大丈夫だって」
今日もう一回あったが。
眉根を寄せて刻人は考え込んでいる。
ああもう、と那智は思った。
わかっている。
わかりきっていることだ。
なんだかんだ言って、傍若無人でも他人である那智のことを気づかってくれるこの人を俺は困らせたくないんだ、と那智は思う。
「わかったよ!わかったよ。俺はこのきったないビルが好きなんだよ。そういうことでいいでしょ」
はい、この話は終わりと会話をぶった切った那智に刻人は嘆息した。
「本当にいつでもいてくれていいんだぞ。お前が望むならな」
だからそういうところだっての!
俺がここにいるのは建物の居心地が理由なんかじゃない。
そうじゃないならそこにいる「人」以外に理由がないことに気づけばいいのに。
俺はあんたに人として惚れているから。
いや別にわからなくてもいいか。
少しもやもやする気もするがわかられたらわかられたで恥ずかしいというか、どんな表情で顔を合わせればいいのかとかそんな人並みの羞恥心は自分にはあるのだ。
そこは、わかってほしい。
「なんだかんだ言ってもあの女も誰かと別れたくなくてずっと底で待っていたのかもしれないね……」
自分が必要とされることを。
自分の居場所を。
「何か言ったか?」
「んーんなんでも。お詫びとお礼になんか作るよ。食べたいものある?」
少し考えたあと、刻人は言った。
「じゃあ焼肉」
はあ?
思わず呆れて声も出ない那智の顔を見てククッと刻人は笑った。
してやったりという感じだ。
「やっぱり聞いてたんじゃん……」
那智は拳を振り下ろす。
「思いっきりこってりした高いやつにしてやるからね。国産の霜降り肉買ってやる。もちろん刻人さんのお金でね」
そう言った那智に笑って刻人は言った。
「それは困る」
そして那智の頭をくしゃりとかき回して。
「まあ、ほどほどにな」
「っっ!本ッ当に腹立つ!」
唸る那智に刻人が微笑み、那智もつられて表情を崩した。
外の樹が揺れる。
爽やかに茂る葉が二人を見下ろして、やがて風に吹かれて夏色の空に昇っていった。
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