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紙を散らせた後、気を失って倒れこんだ女性を介抱すると二人は問題の家を出た。
しばらくなにも言わずに歩く。
「刻人さん、あの」
那智がそう言うと刻人は立ち止まった。
「どうした」
次の言葉が出てこない。
「どこか痛むのか」
刻人の手が触れたので那智はビクリと体を震わせた。
ぎゅっと手を握る。
それでも腕の震えが止まらなかった。
刻人が腕に触れて、ゆっくりと拳の形に握りしめた那智の手をほどいていく。
くっきりと爪の跡がついていた。
それを見て、刻人は少し息をのんだ。
刻人は那智の前髪を払って自分のサングラスを外した。
黒い部分が多い目が真正面から見つめてくる。
その目に吸いこまれる。
「どうだ?」
「え?」
なんだか肩の力が抜けた。
「まだいらいらするか?」
「なに?顔近いって」
「お前あの場所にいられなくて残念なんて思っているんじゃないだろうな」
どういうことだ?那智はそう思ったが、同時に理解がストンと胸に落ちた。
俺は刻人さんにいらいらして、勝手に嫌われてると思って逃げ場所を探している。
そしてあの井戸に戻ろうとしていたのだ。
井戸に飛びこまず、未遂ですんでも回復しなかったものもいるという。
今もずっとあの井戸は人を呼んでいるのだ。
「そんなわけ……ないでしょ」
「そう、そんなわけない」
那智と刻人は視線を交わした。
不思議だ。穏やかな動物の目を見るように那智の心にはじんわりと温かいものが広がっていた。
「そんなわけない。心の中で出来るだけ唱え続けろ。……帰るんだ、と」
「わかったよ」
二人で肩を並べて歩き出す。
音のしない夜。月の下でカツカツと、二人の靴音が品のいい音楽のように鳴った。
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