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 私が趣味で各地の石碑や石仏を訪ね歩くのは、日が昇ってから沈み切るまでの時間帯だ。  早朝の露に濡れる庚申塔、(ひる)の白光に照らされる道祖神、夕日に染まる馬頭観音。造られてから百年以上経つ石造物は苔生し傾き朽ちかけて、なおもそれぞれ風情がある。  夜は、いけない。  迷信、禁忌の類ではない。  単純に見えないのだ。  古い石の表面は風雨に晒され、刻まれた文字も文様も浅い凹凸になっている。明るい日差しの中でこそ辛うじて陰影深く読み取ることも可能だが、日暮れた後はまったくいけない。  なので日が傾いて夕焼け空に夜が混じれば、それは引き上げ時の合図である。  私は旅先では夜に出歩くことはしない。  酒を飲めないし遊びに手を出すこともないので夜の町には縁がない。そもそも石仏を尋ねる旅先の、その宿泊先はひなびた温泉宿になりがちだ。外に遊びに行くよりも夜の風呂にこそ醍醐味がある。  だからその日のその夜に私が宿の外へと出てみたのは、まったくの気まぐれだったのだ。  今日の調査はここまでにして残りは明日回ろうと、とある集落の中にある宿に入る前、坂道の脇を流れる水路の上に蛍の光を見た。  仄かに笹の葉の緑がかって黄色く光る儚い光は、つい、と流れて坂下に向かい夕闇に溶けるように見えなくなった。    宿に入った私は出された夕食を済ませてから、ゆっくりと湯を堪能し、そこまではいつも通りの行動だった。だが寝床に入ってそれからは、まったく寝つける気配がない。手持無沙汰の暗闇の中、私は夕暮れの蛍の光を思い出した。  ちょっと様子を見て来よう。  私は部屋を抜け出して、宿の玄関の鍵をそうっと開けて外に出た。  外は仄白い夜だった。  明かりが無くても物々の輪郭は朧に浮かんで、自分の手の先、指の先、足元の地面も明瞭に見える。  ああ今日は満月なのだと、私はようやく気がついた。  満月が落とす樹木の影は微動もせずに道に貼り付く。  夜の静けさ。寝静まった人々の気配。  ふいに視界の端を黄色い蛍の光が、つい、と流れ、途端に夜の気配が充満した。  寝静まっているのは人の世界。満月の夜に森の動物、里の草むらの浮かれた息遣いが心身に迫り、彼らの高揚に私の心も次第に同調し始める。  ムササビが杉の枝を飛び渡る音、ゴイサギが獲物を探して小川に踏み込む水の音。  強い日差しに息を潜めていた陰生植物が深々と呼吸を始めて葉を騒めかせている。  坂を下り切り通しの隘路を抜けると、何百匹ものカエルの声が空気を埋めた。  生き物たちは満月の夜を命いっぱいに謳歌している。  私は彼らが満月に浮かれる気分そのままに、行く先を用水路の先の溜池と見定めて夜の田んぼのあぜ道を歩き始めた。月の光に白く照らされたあぜ道は、昼間よりも歩きやすい。  田んぼでは稲が青い葉をすいすいと上に向けている。  水路は分枝し合流し、伸び盛りの稲に水を与え続けている。  ばしゃり、と聞こえる水音は、泥に潜るナマズかウナギか。ぷくぷくと立つ小さな空気の泡の音がそこかしこから聞こえてくる。  生き物たちの濃密な息遣いの中を歩き、歩いたその先に、やがて月の光を水面に映す小さな溜池が見えてきた。    もう少し、あともう少しでそこに着く。  その時、後ろから何かが私を追ってきた。  てん、てん、てん  振り返ると、それは転がる白い球だった。  野球の球より明らかに大きく、サッカーのボールより明らかに小さい。  大人なら片手で掴める大きさだが、子供なら両手でないと持てないだろう。白い球は月の光を映してか、薄く発光しているように見えた。  てん、てん、てん  白い球は地面を跳ねて私を追い越し、私の目的地である溜池に一足早く到達し、そして。  ぽちゃん  溜池に落ちた。  暗い水面に白い球はぷっかりと浮かび、同心円のさざ波に月の姿が千切れて光る。  そのうち波が静まると、溜池の水表には中天の満月が丸く映って、水面に浮かぶ白い球と離れず並んだ。まるで月が二つ浮かんでいるかのようなその光景。  怪しい心も覚えぬまま、その不思議な光景をただ面白く眺めていると、私の背後から今度は生き物の気配がやってきた。擦れる草葉の音からするとクマやイノシシなどの大きな動物ではない。イタチか、タヌキか。あるいは近所の飼い猫か。  はっ、はっ、と弾む息の持ち主を確かめようと私が再び背後を振り返ると、そこには一匹の犬がいた。溜池に浮かぶ球と同様、月の光の様に白い犬である。柴犬程度の大きさで吻が詰まったタレ耳の犬である。  犬は人懐っこい仕草で私に近づき、黒く艶やかな丸い目で私を見上げて小首をかしげた。近所の飼い犬が逃げて来たのか。あるいは田舎ゆえの放し飼いか。  手を伸ばして頭を撫でてやると、犬は嫌がらずに尻尾を振る。  やはり近くの飼い犬だろう。長めの体毛は緩やかな巻き毛で、背や腹で軽やかに渦を巻いている。  ひとしきり撫でてやると、犬は何かを思い出したかのように辺りを見回して、ふんふん、と鼻を鳴らし始めた。やがてその白い犬の視線の先は池に浮かぶ二つの月、その片割れの白い球に固定された。  犬は私の足元を離れて溜池の縁に近づき、首をうんと伸ばして球を見る。  水は、どうやら苦手らしい。犬は白い球を見ながら溜池の縁をぐるぐる走り回った。そうしてどうにもならないと悟ったのか、犬はぺたりと地面に座り込んだ。  くうん  情けない声が漏れている。  くうん  犬は側に寄った私を見上げてきた。  私は犬の頭を撫でてから溜池の水際に近づいた。手ごろな棒などは見当たらない。水に入って泳ぐなどとは論外だ。  私は両の掌で溜池の水面を叩き始めた。  ぱしゃん、ぱしゃん  水面は揺れてやがて大きな波になる。  波に崩れた月の光が白い球を反対側の池の縁へと運んでいく。  ぱしゃん、ぱしゃん  水面を叩く私の側でその様子を見ていた犬は何が起きているのかを理解したのか、池の向こうに走っていった。  ぱしゃん。  ひときわ大きな波が水際から白い球を浮き上がらせて、犬は短い鼻先で器用に球をすくい上げた。  てん、てん、てん  白い球は地面を軽やかに転がっていく。犬はその後を急いで追い始めた。白い巻き毛が月の光に銀色に光って波打っている。  木陰に入るその手前、犬はちらりと私を振り返って大きく左右に尻尾を振った。その時に気づいたのだが、犬の尻尾の毛は長く、まるで馬の尾のようだった。  思わぬ夜の散歩から宿に帰った私はそのまま寝床に潜り込み、朝までぐっすり熟睡した。そうして陽が充分上った頃に宿を出ると、昨日の続き、また石碑を探して集落を歩き始めた。  古い民家、古いお堂、古い橋のたもとに石碑は点々と並んでいる。  集落の外れで私は鬱蒼とした木々が生う神社を見つけた。  石段は欠け、鳥居には照葉樹の硬い落ち葉が降り積もっている。注連縄も紙垂もない。昼なお薄暗い神社の境内に立て集められた石碑を眺めているうち、私は一対の石灯籠に目を止めた。  参道左側に据えられた一つには、躍動感ある獅子が彫られている。この小さな神社では狛犬代わりの灯篭なのだろう。もう片方。参道の右側に立つ石灯籠にも獅子が彫られていることを期待して、私は石段を回り込んだ。  そこには何も彫られていなかった。  その代わりに大きな窪みがあった。まるでそこに掘られていた獅子がすっぽり抜けだしてしまったかのような、そんな大きさの窪みだった。    もう一度、獅子の彫られた灯籠を見る。  短い吻、四肢が躍動し垂れた耳が片方持ち上がるように浮いている。体毛の線は緻密に彫刻されて胴体で軽やかに渦を巻き、長い尾の先までが鮮明だった。そして前足には鞠を一つ、抱えていた。  私は昨夜出会った犬の姿を思い出した。  短い吻、タレ耳、渦を巻いた体毛、馬のように長い毛のはえた尾。まるでこの石灯籠の獅子とそっくりのその外見。追っていたのはボールではなく鞠だったのか。  昨日の満月に浮かれて遊び回っているうちに元の石灯籠に帰りそびれてしまったのか、それともずっと前から遊びに出て行きそのままなのか。  あの白い球。私が触れても良かったのだろうか。  あの白い犬。私が撫でても良かったのだろうか。  石灯籠に手を触れる。  古い石の表面は風雨に晒され、刻まれた文字も文様も浅い凹凸になっている。明るい日差しの中でこそ辛うじて陰影深く読み取ることも可能だが、薄暗い参道でその輪郭は曖昧だ。  これまで私が見てきた多くの石碑のうちに、時々同じような窪みがあったことを思い出した。  満月の夜は、もしかしたら。  石碑を訪ね歩くのは昼間がよい。  早朝の露に濡れる庚申塔、(ひる)の白光に照らされる道祖神、夕日に染まる馬頭観音。造られてから百年以上経つ石造物は苔生し傾き朽ちかけて、なおもそれぞれ風情がある。だが。  夜は、いけない。特に満月の夜は。  石碑愛好家の自分勝手な決まり事を、私はあの夏の夜以降、守っている。
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