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落葉の積もる初冬、歌松武志のいる警察署に一件の通報が入った。酔っ払い同士の派手な喧嘩が起きたらしく、中には暴力に走った者もいるらしい。
通報者は付近を歩いていて巻き込まれた被害者の娘。幸いどちらにも大きな怪我はなかったものの、被害者の方は体を一発殴られているようだった。数人の警官が現場へ急行し被疑者を任意同行させ、被害届受理のため被害者とその娘も連れていった。
他の警官たちが事件関係者を車に乗せ署に戻ってきた頃、ようやく手の空いた歌松は、取り調べ室のある刑事課へ向かった。複数の警官たちが被疑者と被害者を別々の部屋に分け話を聞いている。遅れてやって来た歌松は、まだ事情聴取を受けていない、被害者の娘の方を担当することになった。
目撃情報を確認し、概ね事情を聞いてから、親の怪我が大したものでないことを報告し、雑談などして他の事情聴取が終わるのを待っていると、不意に娘が強請るような目で歌松を見つめた。
「連絡先を教えて頂けませんか?」
歌松は頷いてメモ帳に署の番号を書こうとした――が、「違います」と途中で止められた。
「歌松さんの連絡先です」
「俺? 何故だ? 聞きたいことがあるなら、」
「歌松さんと個人的にお話がしたいんです」
遅れて意味を理解した歌松は、その期待に満ちた瞳を見てぐっと言葉に詰まる。警官が仕事中に異性から連絡先を聞かれておめおめ教えるなどあってはならない。しかも、相手はどうやら自分に個人的な好意を抱いているらしい。それを分かっていて――
「市民の希望に応えるのが、警官としての責務でしょう?」
――それを分かっていて歌松は、悪戯っ子のように笑うその娘に、署の電話番号でなく個人の携帯番号を教えてしまった。
被害届を取るため部屋を出ると、外で待機していた歌松の同期柳原が、からかい調子で歌松に声を掛けた。
「珍しいね。余程好みだった?」
「聞いていたのか」
「昔付き合ってた子もあんな感じじゃなかったっけ。歌松の好みは変わらないね」
「……くだらん事を蒸し返すな」
難しい顔をする歌松を見てふふっと柔らかく笑った柳原は、
「くれぐれも問題は起こさないようにね」
僅かに声のトーンを落としてそう言うと、歌松の肩をポンと叩いて通り過ぎて行った。
事件から一カ月が過ぎた頃、歌松は偶然例の娘と再会した。
歌松の署があるのは遠方からやって来る人間の多い繁華街ではなく、ベッドタウンであるため、扱った事件の関係者が所属する署の管轄内に住んでいることも珍しくはない。そんな運命と呼ぶのは大袈裟な再会を娘は大層喜んでいるらしく、歌松を見つけるなり嬉しそうに駆け寄ってきた。
「こんにちは」
「こんばんはだろう。こんな時間に何をしている?」
時刻は既に午前一時を過ぎている。いくら日本とはいえ、若い女性が出歩くには少々危険であるように思われた。
「リップクリームをなくしてしまったので、コンビニまで買いに行ってたんです」
無防備に笑う娘を見て歌松は少々気まずく感じたが、「家はどこだ? 送っていこう」と申し出た。あれからこの娘からは何度か連絡が来たものの、柳原に釘を刺されたことで思い直し、悉く無視を続けていたのだ。
歌松達は誰とでも自由に恋愛をしていいわけではない。警察には申告制度があり、遠出する時や車を買う時など、直属の上司に報告し予め許可を取る必要がある。そればかりか、誰かと結婚する時、男女交際する時でさえも、相手の住所、氏名、年齢、職業――事細かに報告しなければならない。上司から許可がおりなければ、警察を辞めるか、交際を辞めるか迫られることだってある。
娘は歌松の関わった事件の関係者なのだ。もし結ばれるようなことがあったとしても、きっかけが仕事中の逆ナンだった等と報告できるわけがない。その一点で、歌松は娘を避け続けていた。
「歌松さんってお忙しいんですね」
暗い夜道、顔はよく見えないが、娘の笑う気配がした。
「だって、折り返しの電話さえしてくれないんですもん」
柔らかいのに棘がある――どこか同期の柳原に似た空気感を持つ女性だと思った。歌松は少し躊躇った後、ちらりと娘を見下げて問う。
「お前は、その……俺に気があるのか?」
歌松らしい不器用で直球な質問だった。散々気がある風に振る舞っていたつもりだったので、娘にとってそれは、随分と今更な質問でもある。
「はい。一目惚れですよ。変ですか?」
「いや、変ではない……が」
「立場的に私を相手するには問題がある?」
「……あぁ」
「お堅いんですね。あ、家ここなのでもう大丈夫ですよ」
そう言うと同時に、娘は歌松の活動服の襟を引き寄せ、爪先立ちしてその唇に自分の唇を押し付けた。それはほぼ一瞬のことで、歌松が娘を引き剥がす前に、娘の方が歌松から離れて行く。
「リップクリーム、買いに行って良かった」
蠱惑的な眼差しを向け、相手を馬鹿にするような笑い方をした娘は、
「ガサガサの唇でキスなんでできませんからね」
それだけ言ってけろりとした顔で玄関ポーチを進んでいく。
あまりのことに数秒硬直していた歌松は娘が家へ入っていく直前に何とか気を取り直し、夜中であるにも関わらず怒鳴った。
「――けしからん!」
「何それ、いつの人ですか? ま、ごちそーさまでした」
ちゅっと投げキッスをかましてドアを閉めた娘に、残された歌松はぐぬぬぬと歯を食いしばるのだった。
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