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歌松は上司にきちんと申告することを決意し、次の日仕事を終えると、早速係長のいる四畳半の和室へ向かった。そして、課長と係長の前で、できるだけ差し支えのないように、事の一部始終を説明した。その最中課長たちがずっと深刻な表情をしているのを見て、歌松の額を汗が伝った。
説明を一通り聞き終えた後、係長がゆっくりと口を開く。
「今日中にその女性には、もう二度と二人では会わないと伝えておけ」
その一言で、室内がピリピリとした緊張感に包まれる。周辺の空気が明確な重みをもっていて、四方八方から圧迫してくるような息苦しさを感じた。
「クビを覚悟しておくことだ」
――やはりそう上手くはいかないらしい。
年始休暇で署長が休んでいたため処分は保留になったが、交際を認めないというのはどちらにしろ同じだといった風に、課長たちは歌松の説得を聞かずに部屋を出ていってしまった。正月が明けてから署長に報告し、それから処分を決めるというのが課長の方針であるようだった。
重い足取りで署を出た歌松を待っていたのは、同じく今帰るところであろう柳原だった。歌松の表情から全てを察したらしいこの男は、可笑しそうに体を揺すって笑う。
「報告したの? バカだなぁ」
「黙っているわけにはいかんだろう」
「そう? 俺は交際相手まで管理されるのは御免だけどね」
柳原は何かと規律の厳しい警察組織そのものを嫌っていた。規律の遵守を重視している歌松とは、その部分で対極である。
真冬の刺すような冷気が肌に凍みる夜だった。墨をぶちまけたように黒い空の下、柳原が不意に呟いた。
「俺の奥さんも俺の担当した事件の関係者だったよ」
――それが歌松にとってどれだけ衝撃的な告白だったか。上司に対して冷めた感情を抱きつつも表立って歯向かうことなどしない柳原が、まさか何年も前に既にそんな細やかな反逆をしていたとは、誰が想像しただろう。
「そんな話は聞いていないぞ」
「友人の紹介で知り合ったって言ったからね」
悪びれず吐いたその言葉が、白い息になって凍り付く。
動揺を隠せずにいる歌松の前で柳原は、
「世の中、正直者が馬鹿を見るよ。歌松」
これまたとても警官とは思えないセリフを易々と吐き出し薄く笑った。
真面目なだけでは得をしない――歌松はそう言われたような気がして、その後数日間、娘に別れを告げることができないままだった。
ついに署長の出勤日がやってきた。それは、この日歌松の処分が決まるということを意味していた。
仕事に身の入らないまま過ごしていた歌松の公用携帯に係長からの着信が入ったのは昼過ぎのことだった。外での仕事中だった歌松は、係長の命令で署に戻り、正月に話をした部屋まで連れていかれた。室内では前回と同じく、課長と係長二人が待っていた。
ただ前回と違うのは、以前のような張り詰めた空気とは違い、部活動の今後の予定を生徒に伝えるかのような軽々しい空気があることだ。
「署長から、交際の許可がおりた」
課長が告げると、続けて係長がはっはっはっと大きな口を開けて笑う。
「連絡先教えちまったもんはしょうがないってさ」
歌松の問題はその上司の問題でもあるため、彼ら自身も歌松が許されたことに関してかなりほっとしているようだった。
こうして歌松の小さな不祥事は、結果的には何事もなく幕を閉じた。しかし、もしこれが別の署長であれば、何らかの処分を受けていた可能性だって大いにある。歌松は己の失態を恥じつつも、すぐに娘に連絡を入れた。事件の関係者に個人の連絡先を教え恋に落ちたことは反省しているが、それでも歌松は、彼女と出会えたことに関してだけは後悔などしていなかった。
この数日間娘と連絡を取っていなかった歌松は、その理由を休憩室で電話越しにきちんと説明した。
『いいんですよ。私はそういう、歌松さんのお堅いところも可愛いなって思いますし』
電話の向こうの彼女には少しも気を悪くした様子がなく、それどころか変わらず小生意気な調子だった。
『真面目であることを放棄してまで、私から離れることを躊躇ってくれたんでしょう?』
前向きに捉えてくれるらしい娘に、歌松は内心安堵の吐息をつく。しかし、
『まぁ本音としては、そんなことくらいで何無視してんだこの堅物野郎、死ねって感じですけどね』
次に吐き出された言葉は刺々しく、ここ数日彼女も落ち込んでいたことが伝わってきた。
「……すまん」
『他に言うことはありませんか?』
「それは……、」
言いたいことなら当然在る。そのために危険を冒してまで上司に申告したのだ。だが――電話という手口は、それを伝える手段として不十分であるようにも思われた。
「それは、今度直接会った時に言おう」
今度こそ覚悟を決めてそう言った歌松に娘は、
『先延ばしされてばっかですね、私』
と幾らか面白そうに笑った。
~END~
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